ブレンデルの「巡礼の年:第2年イタリア」

時折自分のことが哀しくなる。
達観しているわけでもないのに、目に映る光景が「幻想」、あるいは「作り物」に思えてしまって、自分がそのシーンからはみ出してしまっているかのよう(不思議な距離感があり「殻」の中に入り込んでしまっているかのよう)に感じるのだ。僕はそもそも人が好き。他人と直接に交わりたいと思うし、誰かと共同作業でことを為したいとも思う。自らの志を形にするにはどんな場合でも他人の力が絶対に必要なのだから。
しかし、現実の世界はとても手強い。空想では飯は食えぬ。ならば接点をどこに置くか。
人間の思考には限界がある。「志だけは明確に、そして具体的行動を起こし、あとは天意に基づくのだ」と聞いた。

今度の「中島剛ピアノ・リサイタル」はオール・リスト・プログラム。しばらくぶりにフランツ・リストの音楽に浸ると決めた。僕は彼の作品が苦手だった。何がだめだったのか?リストの生み出す「崇高さ」が何事も嘘くさく感じられたから。そもそもコンプレックスの塊である彼が、生来の才能を縦横に駆使して創り出す音楽は実に華麗で、実に美しく、時に繊細でありながら時に革新的な響きに溢れ、大胆であることに「真実」を見出せなかった。でも僕はわかった。それこそが(大衆)芸術なんだと。自らを表現するために内側の「負なるもの」が起爆剤になり、音楽というものが形として残る。ただし、その際、一般大衆にわかるように「のりしろ」をもうけておかなければならない。観客に喜んでいただくには半歩下がる、あるいは一段階段を下りる必要があるということだ。

その点、リストは天才だった。独奏会としてのリサイタルを開催したのも彼が初。そして、自身の作品以外もプログラムに入れたのも初。中で、彼がベートーヴェンの晩年のソナタを世に広めた功績は大きい。楽聖の9つの交響曲をピアノ編曲して世間に知らしめる努力をしたことも絶賛に値する。彼は志を以って音楽の道を邁進した。誰にでもわかる、受け容れられる音楽を創造しようと努力した。音楽のもつ2面性「聖」、「俗」を決して切り離さず、見事に同化して聴衆の心を鷲掴みにした。

その上で、特にマリー・ダグー伯爵夫人との恋愛終了以降、彼は作品を一層深化させた。より神に近づこうとリストは自らと、そして世間とも闘った(のか?)。

リスト:巡礼の年:第2年「イタリア」
・婚礼
・もの思いに沈む人
・サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ
・ペトラルカのソネット第47番
・ペトラルカのソネット第104番
・ペトラルカのソネット第123番
・ソナタ風幻想曲「ダンテを読んで」
アルフレート・ブレンデル(ピアノ)(1986.3.24-26録音)

ブレンデルのピアノってこんなにも素敵だったか?
久しぶりに耳にしての率直な感想。音が徹底的に澄んでいて、しかも軸が安定してぶれない。「婚礼」における祝祭的要素と神々への祈りの見事な音化。
3つのペトラルカのソネットに感じられる哀しみは、僕が自らに感じる哀しみと同質か?(ということは、ここにはまだまだ「作為性」があるということだ。リストの弱点でありながら実に近寄りやすいかわいいところ・・・笑)。「ダンテ・ソナタ」は不気味でありながら実に深い。

 


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