ツィマーマン&ラトルのブラームス

brahms_rattle_zimerman.jpg「気づき」のシェアーをしていただくと、自分自身の大いなる「気づき」にも直結する。自身が傷つくことを怖れて人は「真実」を追求しようとしない。棚に上げて見ないふりをすれば時が解決してくれるものだと思うのだ。特に、「問題」についてはたとえその時にうまく回避できたとしても、いずれまた同じような壁にぶち当たり、同じく解決できないまま避けて通るということが繰り返される。事の詳細が異なっていても、同じ人間が起こす行動の根本は決して変わることはない。人間、そうそうは変わらないのだ。であるなら、今、この時に解決に導くほうがよい。人間関係においては推測でモノを語るなかれ。人にはそれぞれ理由がある。とったその行動の裏には必ず事情があるのだ。その事情をしっかり把握した上で相手を認め、受容すれば、ぎくしゃくした関係も途端にスムーズに運ぶようになる。とはいえ、簡単なようでいて難しいのが「人間関係」。相手があることだから、必ずしもシミュレーション通りに事は進まないが、性善説に基づくなら怖れる必要はなかろう。

親子関係とその他の人間関係は地続きだと僕は思う。「親和」のコミュニケーション、すなわち深いストロークのある関係性においては「信頼」が生まれるが、表層的な交流からは「不信感」しか生まれえない。表向きいくら仲良さそうな関係に見えても、根底でつながっていない限り人は他人に心を許すことができない。その大本が親と子の関係であると考えるのだ。よって「親和」とは「親との和」という意味合いも兼ねている(と僕は考える)。

人間の成長過程において「家庭」が与える影響というのは極めて大きいものだと最近痛感する。愛情を十分注ぎながらも躾はきちんとする、そういう子育てをしたいものだ。

ブラームス:ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ)
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

久しぶりにブラームスを取り出した。温故知新。古いものを大切にしながらも、独自の表現方法を開拓し、「革新性」を音楽の中に持ち込んだヨハネスは決してコミュニケーション上手だとはいえなかった。それでも自らの表現手段である「音楽」を通して、愛情深い「心」を伝えてくれるだけで後年の我々にはありがたい。

後世の音楽家たちにとっては作曲家のそういう「想い」をいかに上手に再現するかが鍵であろう。若きツィマーマンが晩年のバーンスタインと録音したブラームスも素晴らしかった。レニーの粘りっ気たっぷりの表現はいつ聴いても作曲者の内燃する「想い」や「愛」を引き立たせる。一方、ラトルとのこの新盤においては、意外にもあっさりと進める中に、直接的な「心」と余裕たっぷりの「自信」が感じ取れる。


2 COMMENTS

雅之

こんばんは。
>性善説に基づくなら怖れる必要はなかろう。
ここが、岡本さんと私の、いつも意見が違うところですね(笑)。
私は、人間とは「善」と「悪」を併せ持つ存在だと思っています。
そもそも、個人では「善」でも、集団、組織、国家になると「悪」になることも多々ありますし、何が「善」で何が「悪」かは、人によっても、価値観によっても、立場によっても、文化によっても、国によっても、民族によっても、基準が異なります。
人は誰しも「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」(『歎異抄』「後」)なのですから、人を好きになるということは、「清濁併せ呑む」覚悟が必要なのではないでしょうか?
そもそも「性善説」とは孟子による儒教の教えですよね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC
でも私は、他人を「善」と考えるか「悪」と考えるかは、その時々の自分の心の反映に過ぎないと思っています。
まさに「一月三舟」です。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&dname=0na&dtype=0&stype=1&p=%E4%B8%80%E6%9C%88%E4%B8%89%E8%88%9F&index=01198900949200
ある演奏を聴いてどう感じるかも「一月三舟」ですね。ツィマーマンの新盤は未聴です。旧盤は好きです。ツィマーマンは、最近ちょっと日本で荒稼ぎし過ぎでは?とも、つい思ってしまいます(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
雅之さんのご意見、ごもっともであり、まったく異論ありません。まさに『他人を「善」と考えるか「悪」と考えるかは、その時々の自分の心の反映に過ぎない』という言葉通りだと僕も思います。僕が「性善説」という言葉を使うのには理由があります。
その使い方が正しいかどうかは別にして、「相手を信じて自分の善なる部分」を表現すれば必ず相手からは「善」が返ってくるし、一方「不信感を持って、あるいは怖がって悪なる部分(悪という言葉が正しいかどうかはわかりませんが)」を感じさせれば相手からはしっぺ返しを食らうようなことが起こるだろうという仮説(あるいはこれまでの体験)に基づいて使っているのです。
本当は人って誰しも「わかりあいたい」と思ってるんじゃないのかなぁと思うんですよね。というより、そうだと信じたいんですね。ただし、「善も悪もその時の状態」ですから、表立っては愛しあったり、喧嘩になったり、いろいろとありますが。
何かそういうものを超越したところではやっぱり「ひとつ」なんだろうなって信じてるんですよね。悪い人は、というより悪い魂ってないんじゃないかって・・・。
うーん、この件についてもお会いした時にゆっくり語りたいですね。
>ある演奏を聴いてどう感じるかも「一月三舟」ですね。
確かにそうですね。ツィマーマンについては旧盤のほうが僕好みですが、その時の状態によって感じ方も変わると思います。
おっしゃるとおり、最近荒稼ぎですね。リサイタルを開きすぎです(笑)。

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