ケンペの「ツァラトゥストラ」を聴いて思ふ

r_strauss_zarathustra_kempeワーグナーとニーチェはどうして袂を分かったのだろう?
要するに2人でひとつなのである。あまりに宇宙人的なワーグナーに対して、あまりに人間的なニーチェ。根本的にこの2人がわかり合えることはなかった。でも「天」であるワーグナーに対してニーチェは「地」だった。まさに表裏、陰陽。生のある時にそのことに気づけなかったことが各々のカルマなのか何なのか。大変に惜しい。
喧嘩することなどなかった。
ひょっとするとコージマを間に挟んでの感情論的対立はあったのかも、いや、多分そうだろう。ワーグナーの内に本来ある、そしてニーチェ自身も絶対的に所有していた「全体観」をもっと活用できれば良かったのに・・・。

あくまで僕個人の独断的見解だが、この「融合」があったらばもっと世界は変容していたのではないかと。過ぎ去った時代を取り戻すことは不可能だけれど、100数十年を経て、客観的立場から俯瞰してようやくそのことが見えてくる。

ニーチェの「ツァラトゥストラ」を題材に、リヒャルト・シュトラウスは交響詩を創造した。あくまで彼個人の音楽的表現。そして、シュトラウスの音楽的規範はワーグナーその人。ワーグナーの継承者であるシュトラウスがニーチェに感化されたことが面白い。しかも、交響詩という形式が、コージマの実父であり、ワーグナーの義父であるフランツ・リストが創始したものであること自体が音楽史の奇跡。血はつながるということだ。

リヒャルト・シュトラウスはナチス・ドイツ時代の音楽局名誉総裁(しかも第三帝国の作曲家と言えるのがワーグナーであること)。ユダヤ系作曲家の作品を葬ろうとする当局と後に対立するも、その肩書きであったことは実に大きな意味をもつ。

すべてがつながりの中にあり、すべてが誤解の下に起こっていることに気づくべし。それは現代社会においても。

R.シュトラウス:
・交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」作品30
・交響詩「死と変容」作品24
・楽劇「ばらの騎士」作品59~ワルツ
ルドルフ・ケンペ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1971録音)

言うことなし。いぶし銀の如くのシュターツカペレ・ドレスデンの地に足の着いた音楽に脱帽。もちろんそれはルドルフ・ケンペの統率力によるものだ。
例のキューブリック監督作「2001年宇宙の旅」で有名になった音楽だけれど、作品の根底に流れるのはあくまで「人間の感情」であるところが逆に興味深い。その意味で、シュトラウスはニーチェを理解していたのか。なるほど、シュトラウスの音楽に飽きが来やすいのは「現世」が、そして「三次元的世界」がテーマになっているからだ。少なくとも交響詩を追究していた頃の彼は現実的過ぎた。
ケンペの音楽は生々しい。そして、現実的だ。そのことが彼のシュトラウスが評価される所以だろう。本日、また新しい発見あり。

週末は第3期第10回「早わかりクラシック音楽入門講座」。「ツァラトゥストラ」を中心に。


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