ザルツブルク音楽祭75周年記念CD

wiener_philharmoniker_und_ihre_dirigenten.jpg先日、友人のウゾイダがブログで「無欲と大欲」について書いていたのを見て「なるほど」と思った。僕なども「無欲」であることを妙に美徳とし、大事なことを忘れていたように思う。いや、(僕も)知らなかったと言った方が正しい。

ザルツブルク音楽祭75周年記念「ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と偉大な指揮者たち」
モーツァルト:歌劇「魔笛」K.626~序曲
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

アルトゥーロ・トスカニーニのザルツブルク音楽祭への出演が最後になった1937年に録音された「魔笛」。その序曲がこの音盤には収められているが、ティンパニの炸裂するキレのある、しかも意味深い有機的な響きが奏でられているのを聴くと、トスカニーニという音楽家には真に「愛」があり、一般的にいわれている「独裁者」というイメージとは程遠いとても人間的な温かい側面をもった大芸術家だったのではないかと容易に想像できる。同年、ライバルであったヴィルヘルム・フルトヴェングラーとザルツブルクの街中において偶然鉢合わせし、口論となったことがきっかけで以降二人の巨匠が交わることは二度となかったということであるが、その際に交わされた会話はあまりにも有名なもの。

トスカニーニ「今日の状況下で、奴隷化された国と自由な国の双方で同時に指揮棒をとることは、芸術家にとって許されることではありません。」

フルトヴェングラー「私は、音楽家にとっては自由な国も奴隷化された国もない、と考えます。ベートーヴェンが演奏される場所では至る所で人間は自由です。もしそうでないとしても、これらの音楽を聴くことにより自由になるでしょう。音楽はゲシュタポも手だしのできない広野へと人間をつれだしてくれるのですから。私が偉大な音楽を演奏する、そのことがたまたまヒトラーの支配する国で行なわれたからといって、それで私がヒトラーの代弁者だということになるのでしょうか。偉大な音楽はナチの不思慮と非情とに真っ向から対立するのですから、むしろ私はヒトラーの敵になるのではないでしょうか。」

トスカニーニ「第三帝国で指揮するものはすべてナチです!」

~クルト・リース著「フルトヴェングラー」(みすず書房)

とても意味深い会話であり、また各々の思想(考え方)である。この際どちらが正しいのかという愚問は避ける。トスカニーニのヨーロッパを離れた理由は言葉を選ばないで書くならば「人類愛」であるし、一方のフルトヴェングラーの考え方も二元論に依らない普遍的な真理である。どちらも「正しい」。

※上記のCDには、他に1950年のブルーノ・ワルターによるマーラーの第4交響曲フィナーレ(独唱:イルムガルト・ゼーフリート)や51年のヴィルヘルム・フルトヴェングラーによるメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、そして79年のカール・ベームによるブラームス「アルト・ラプソディ」なども収録されている。20世紀を代表する巨匠たちのザルツブルクでのパフォーマンスを聴き比べてみると、それぞれの音楽の創り方だけでなく、その人柄の違いも垣間見ることができ、とても面白い。

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