Miles Davis:Nefertitiを聴いて思ふ

miles_davis_nefertiti僕はいつも「ユニークな自分」であり続けたいと思ってきた。若い頃は無意識だったと思うけれど、今はそのことをあえて意識している。特に、人目を気にせず、やりたい放題できる人々が羨ましい。それは、いわゆる「常識」というものに欠けた人たちなのかもしれない。当然、組織や一般的な集合体の中でうまくいかないこともあったりする。「出る杭は打たれる」。しかし、ここはいっそのこと「出過ぎた杭」になることだ。例えば、有無を言わせぬ創造性。

特に芸術家という存在は、しかも世に名を為す芸術家というのはほとんどそういうタイプの人たちだったのだろうと思う。

どうして他人といっしょでなきゃいけないのだろう?
たとえそれが少数派の、他ではあり得ない行動であったとして、どうして他と相容れない発想や動きは否定されるのだろう。「個性」を重視すると言いながら完全にレールを敷く風潮・・・。誰の内にも才能があり、やるべき使命が存在するのだけれど、どうにも「自分を見失ってしまっているケースが多い。この週末、やっぱりそんなことを感じた。たったひとつの物差しですべてを測ることなどできない。

こんな日はマイルス・デイヴィスだ。これほどに変幻自在に自らの変容を寛大に許した芸術家は少なかろう。とはいえ、立ち位置は一切変えずに。

どんな音楽を発してもマイルスはマイルスだ。その音を聴けば即座にわかる。それこそがアイデンティティ。ミュートを利かした、まるで囁きかけるような短い旋律を紡ぎ合わせた独特の音楽。そして、何より大きいのがサイドメンたちの類稀な力量。そう、マイルスの芸術はそのときの右腕左腕になるミュージシャンたちの才能によるものだともいえる。それこそまさに天才の為せる業!帝王健在。

Miles Davis:Nefertiti(1967.6.7-23録音)

Personnel
Miles Davis (trumpet)
Wayne Shorter (tenor sax)
Herbie Hancock (piano)
Ron Carter (bass)
Tony Williams (drums)

アコースティック期最後のアルバム。エレクトリック・マイルスもいかすけれど、後のV.S.O.P.クインテットの面々を率いた時期のファイナル・アンサーとでも言おうか。

作曲者であるショーター以外はサウンドをはっきり理解していない、調性の薄いモーダルな楽曲―このような楽曲の楽譜を見せられたばかりのメンバーたちは、全員、自分のサウンドが間違っているのか正しいのかわかっていないまま、リハーサルを始めたと思います。・・・(中略)・・・これはまさに作品が生れようとする過程を捉えた、まだ意識/無意識の狭間にある音楽を作品化したものとして、非常に貴重なドキュメントであるともいえます。
菊地成孔+大谷能生「マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究」下巻P32-33

何と言い得た表現か!!
とはいえ、僕には「意識と無意識の狭間」というのがもうひとつ理解できぬ。(笑)
マイルスは天才だったと思うけれど、計算だって大いにあったはずだから(伊達に帝王ではない)。そもそもこのアルバムをどこからどう聴いても完成されているし・・・。何よりその前進性が見事。聴く者に思考の余地を与えず、とにかく「感じるままに聴け」とはなっから促す様はそれまでのマイルス作品以上かも・・・。あ、なるほど、そのことを「意識と無意識の狭間」とおっしゃるのか、菊地氏は。

ちなみに、”Nefertiti”!!

 


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