ABQのモーツァルト「不協和音」四重奏曲を聴いて思ふ

schumann_mozart_abqブルーノ・ワルターは言う。不協和音は協和音へと融け入らねばならないと。そして、形式上の不安から安定に終着せねばと。なるほど、愛の音楽家と称された大指揮者も心底では醜いものを嫌ったということか。あくまで西洋二元論的価値観の中にあったということ。いや、そもそも音楽の形式そのものが陰陽、長短のコントラストを愉しむことを前提にあるようなものだからそういう思想は仕方ないか・・・。
そして一方で、ワーグナーの「私は音楽の精神を愛において以外に捉えることができない」という言葉を引用し、音楽こそは大いなる愛の力と愛の充溢から湧き出でるものだと断言する。高次の感情を表現する音楽は劇の台本をまったく無視しても、それが僕たちの胸を打つ力を少しも減じないとも。

そうか、なるほど。ワルターは単に不協和音を否定したんじゃなかったんだ。協和を体現するには不協和がないと不可能。正も負もあるべくしてあることが言いたかったということ。よって、ワーグナーの思想を引用したのも頷ける。すべてが一に帰することは無意識にワーグナーもわかっていた。彼の楽劇の結論はどんな形であるにせよ「純愛」である。しかも彼はそれを音楽で表現した。

ワルターは結論する。ベートーヴェンのアダージョを聴けと。あそこにはただ愛のみが奏でられていると。確かにワーグナーはベートーヴェンを崇めた。ワルターの言うとおり、ベートーヴェンのアダージョには宇宙万物をすべて融解しひとつにする力が漲る。どの作品を聴いてもそうだ。

そして、そのベートーヴェンはモーツァルトを神と尊敬した。やっぱりモーツァルトは偉大だ。そして、ワルターの上記の言葉によってモーツァルトが「不協和音」と称する弦楽四重奏曲を生み出したのか、少し理由がわかったように思った。

・シューマン:ピアノ五重奏曲変ホ長調作品44
・モーツァルト:弦楽四重奏曲第19番ハ長調K.465「不協和音」
フィリップ・アントルモン(ピアノ)
アルバン・ベルク四重奏団(1985.3.11Live)

K.465の四重奏曲が完成したのは1785年1月14日である。すなわち、ハイドンを自宅に招いての試演会の前日であり、その1ヶ月前(1784年12月14日)にはフリーメイスンに入会している。そのことがモーツァルトに大きな内面的変容をもたらしたことは疑いのない事実。当時としては極めて革新的な「不協和音の連続である」序奏を導入したことはフリーメイスン入会の影響があっただろうことは間違いない。
ここではフリーメイスンの教義そのものについてはとりあえず横に置く。
重要なのは、そのことによってモーツァルトが真の自由、そして絶対的な意味においての宇宙愛に目覚めたことだ。そして、そのことを体現するために彼はあえて耳障りな序奏を用意した。まさにワルターの言う不協和音が協和音へと融け入る瞬間を聴衆に提示するために。これこそ啓示!
アルバン・ベルク四重奏団の演奏は旧盤新盤双方とも優れたものだが、カーネギーホールでのこのライブ盤も実に見事。ライブならではの少々の瑕が逆に頼もしい。すべてが完璧だなんてあり得ないこと。人間だもの。

中秋の名月にモーツァルト(今宵はカップリングのシューマンは聴かなかった)。ありがとうございます。

 


人気ブログランキングに参加しています。クリックのご協力よろしくお願いします。
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む