ムラヴィンスキーのショスタコーヴィチ交響曲第11番「1905年」(1967Live)を聴いて思ふ

mravinsky_in_prague_shostakovich_11154抑圧されし者の怒りの爆発!!
ショスタコーヴィチの交響曲は実演に触れない限りその真価はわかり得ない。先日のアレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルによる交響曲第11番「1905年」を体験して、完膚なきまでの圧倒的音響と、歴史的事実に対する作曲家の完璧な情景描写に気絶しそうになった。
エフゲニー・ムラヴィンスキーは語る。

交響曲第11番はあらゆる交響曲の中で最も叙事詩的なものである。すべての楽章が具体的な内容(歴史的な出来事を表現している)を持っているが、同時に芸術家の内面を有機的に語っているとも言え、それが故に感情的で個人的な表現として響く。そこにはまたショスタコーヴィチとデカブリストのベリンスキーとの連携、特に「1860年代」の芸術家たちとのつながりが独特なものとして存在している。フィナーレ(警鐘)の特異な始まりからは、作曲家自身の怒りの声が聞こえてくる。これは1950年代中期のショスタコーヴィチが進歩して、市民的良心を主張する、求められている美徳を持つ闘士として、人生の全盛期に差し掛かる芸術家がより熱狂的な役割を担おうとしていることを表わしている。
グレゴール・タシー著/天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」P230

第1楽章「宮殿前広場」の不気味な静けさは、そのまま「血の日曜日」の前兆を描くようだが、しかしここには自身が生きていた、スターリン亡き後も続く「ソビエト共産主義の圧制」に対する抵抗がはっきりと刻印される(ムラヴィンスキーが解説するように、そもそもロシアにおいて19世紀中頃から頻発した国家への庶民の不満の爆発と軌を一にするもの)。アタッカで続く第2楽章「1月9日」の、民衆の抗議の感情を表わす主題の絶叫に、まずはムラヴィンスキー&レン・フィルの底力をみる(ここはもうムラヴィンスキーに敵う人はいない)。特に、第3部、群衆に向け皇帝軍が発砲する悲惨なシーンの破壊力こそこの音楽のひとつのクライマックスであり、猛烈なスピードでうなりをあげる音楽の威力に打ちのめされる。何というパニック、そして何という凶暴さ。悲劇が終わった後の、静けさのなかで鳴り響くトランペット・ミュートに思わず背筋が凍る。

エフゲニー・ムラヴィンスキー・イン・プラハ
・ショスタコーヴィチ:交響曲第11番ト短調作品103「1905年」
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1967Live)

1967年の、「プラハの春音楽祭」におけるライヴ録音の凄まじさ!!
第3楽章「永遠の記憶」における死者へのレクイエムのあまりの哀感と静謐さには涙も枯れぬ。後半の、ティンパニ(及び小太鼓)の轟音を背景に咆哮するトランペットの勇猛な旋律は、この悲惨な事件にもめげず、立ち上がる民衆の勇気と決意を表現するものなのか?あるいは、作曲当時の体制に対してある意味革命を起こさんとする自身の固い信念を表わそうとするものなのか?

さらには、ムラヴィンスキーが「作曲家自身の怒りの声が聞こえる」とする第4楽章「警鐘」は、この演奏中白眉であり、最高の出来を示す。
冒頭の金管群の調べから音圧は半端でなく、音楽は激烈な波に乗り、これでもかと前進、聴く者に襲い掛かる。第2部の弦楽器群による革命歌の冷たい官能もムラヴィンスキーならでは。
終結近くのアダージョにおける、深沈と悲しげなイングリッシュ・ホルンの独奏はまるで指揮者に対し絶対的忠誠を誓うかのように完全で、ここでもレニングラード・フィルの各奏者の優秀さが再認識される。その静寂を打楽器が破り、金管群の激しい咆哮を経て打ち鳴らされる鐘の音とオーケストラの爆音に溜息をもらさずにはいられない。恐怖に打ち勝たんとする民衆の勇気と行動に拍手喝采。

 

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