グレン・グールド ザルツブルク・リサイタル1959を聴いて思ふ

gould_salzburg_recital_1959僕が日々の講演で気を付けるのは、あくまでも聴衆とインタラクティブであるということ。一方通行のおしゃべりほど愚鈍のものはない。そこにいる人たちとの交流がお話をする側にも間違いなくエネルギーを与える。ゆえに事前に概要は決めても内容は決めない。当然そこにいる人たちの印象ですべては変わるものだから。

スヴャトスラフ・リヒテルなど著名な音楽家が当日までプログラムを決定しない由もそういうところにあるのだと思う。自身の体調と会場の状態と、そしてそこにいる聴衆の雰囲気と・・・。

公演のその日までプログラムを決めないというのはまだ良い方かも。おそらくそういうものすべてに嫌気がさしてコンサートから完全にドロップアウトした音楽家がいる。言うまでもない、グレン・グールドその人。
彼の引退は正解だったのかどうか僕はわからない。残された諸録音を聴いて、実演で聴いてみたかったという本音はあるものの、やっぱりこれで良かったのだろうという想いも一方であるにはある。しかし、以前、彼のザルツブルクでの実況録音を聴いてその想いが一変に吹っ飛び、彼はコンサート活動をやめるべきではなかったという結論に達したことも否めない、あくまで僕の中でだけの話だが。

披露された音楽はどれも活気に満ちている。とにかくすべての音符が生きているのである。その観点で言えば彼のスタジオ録音はいずれも屍だ。ある意味、マスターベーションに過ぎない。

グレン・グールド ザルツブルク・リサイタル
・スウェーリンク:幻想曲ニ調
・シェーンベルク:ピアノのための組曲作品25
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330(300h)
・J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988
グレン・グールド(ピアノ)(1959.8.25Live)

グールドのスタッカートを多用したモーツァルトは何て可憐なのだろう。もちろん、あのスタジオ録音のような過激な表現には至らず、極めて正当な内で彼独自の表現を試みるという業。しかも左手が決して伴奏に陥らず、ほとんど右手と同等に扱われるという妙味。隅から隅まであまりに素敵である。
そして、スウェーリンクもさることながらシェーンベルクの組曲の有機的な響きの素晴らしさ。いかにもグールド的な機械的な演奏の内側に熱い感情のたぎりを垣間見る。20世紀の音楽とて人間が創ったものであることが見事に理解できる。

もちろん白眉はゴルトベルク変奏曲だ。もはや批判的な一切の言を断たねばならぬ。ここにはバッハの音楽しかない。それも、グレン・グールドにしか可能でない飛び切りのバッハ。これほど生命力に満ちる音楽、演奏があるのだろうか。ことによるとスタジオの新旧両盤を凌ぐ勢い。各変奏はほとんど息つかせず、流麗な流れの中で処理される。先を生き急ぐのか、それともただ単にエネルギーがそうさせるのか、それはわからない。ともかくあっという間の時間・・・。

そこにいた聴衆は何を思ったのだろうか。
グレン・グールドと時間と空間を共にしたという、言葉では表すことのできない感動があったのかも(いや、そこにいた人は数年後に彼がドロップアウトすることは夢にも思わなかっただろうから、そんなことは考えていなかったか・・・笑)。
あるいは、モーツァルトやバッハの真実の声を聴き、これらの音楽の真意を体感したのかも。
いずれにせよ彼らは幸福だ。一期一会の記録。

※過去記事/2008年10月25日:「座禅の会、グールドのザルツブルク・ライブ」

 


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2 COMMENTS

畑山千恵子

グールド関係の資料発注では、関係先へメールを入れるにも落ち着いて入れることにしています。

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