バーンスタインのハ短調ミサ曲K.427を聴いて思ふ

mozart_great_mass_bernstein不完全さの内に垣間見る美しさ。人間でも何ものでも完璧・完全なるものは存在しない。すべてに長短、裏表があるからこその美。もちろん満月はきれいだ。でも、それ以上に欠けた月の、光と翳の調和にシンパシーを覚えるのはそれゆえなのかもしれない。
芸術作品には未完成という代物が存在する。例えば音楽だって、作曲者が意図せず、結果的に不完全な形で残されたものも多い。そういう場合、後世の学者がその作品を完成品として聴衆に届けようと努力し、研究を重ね、再構成する労を厭わない。お蔭で僕たち愛好家は、通常なら決して表に出ることはなかったであろう作品ですら耳にすることができる。ありがたいことに・・・。

どういう事情によって未完になったかは不明だが、モーツァルトにもそういうものがある。
特に、ウィーン時代に残された宗教音楽。ザルツブルク時代にあれほどたくさんの教会音楽を書き溜めた彼もウィーン時代には何と3曲しか残していない。ひとつは「大ミサ曲」と呼ばれるハ短調のミサ曲。もうひとつが最晩年の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618、そして最後の「レクイエム」K.626。

特にハ短調のミサ曲は、誰からの依頼でもなくモーツァルト自身が内発的欲求により創造したもの。よって、この内側には祈りや敬虔な心や、そういう目に見えない力に対する畏敬の念が見事に投影される。雄渾でエネルギッシュな楽想には、サムシング・グレートへの謙虚な畏怖、そして静謐で安寧な調べには、同じくサムシング・グレートへの愛が。
誰かの命令を受けたわけでなく、誰かのためでもなく、いわば純粋に神のために書こうとした音楽は、当然演奏されることが前提にはない。もちろん演奏されることの期待はあったろうが、そんなことはおそらくどうでも良かったはず。ともかく音符のひとつひとつ、旋律のひとフレーズごとに崇高な魂が宿るのである。

モーツァルト:
・アヴェ・ヴェルム・コルプスK.618
・エクスルターテ・ユビラーテK.165(158a)
・大ミサ曲ハ短調K.427(417a)(バイヤー版)
アーリーン・オジェー(ソプラノ)
フレデリカ・フォン・シュターデ(メゾ・ソプラノ)
フランク・ロパード(テノール)
コルネリウス・ハウプトマン(バス)
バイエルン放送合唱団
レナード・バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団(1990.4録音)

最晩年のバーンスタインの演奏は、いつもの彼の粘るような音楽作りが多少後退し、実に中庸な響きに満たされる。いや、というより粘着的ではあるのだが、重い楽想に表現がぴったり合っているのである。「アヴェ・ヴェルム・コルプス」などは実に感動的なもの。メインの大ミサ曲は、死の6ヶ月前のバーンスタインの遺書かと思わせる。あまりに劇的で、それでいて人間っぽくなく、神の声の代弁のような音楽。
それにしても興味深いのは、いかにもモーツァルト的でないクレド(信仰宣言)の堂々たる風格が最晩年のバーンスタインのスタイルを象徴しているようで、微笑ましくもあり、逆に哀しみを誘う音楽になっていること。

不完全さの内に存在する美。モーツァルトは書き忘れたのではない。もはやこれ以上筆は進み得なかったということか。

 


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