立派な作品だ。
終始ピアノが活躍する協奏曲のようだが、作曲者本人はそれを否定する。
形式はともあれ、この音楽はピアノがあるがゆえの官能性に満ちる。どこまでも旋律的で美しい。そして、(少なくともこの自作自演の雰囲気は)「不安の時代」などとはタイトルばかりで、いかにオーデンの詩に触発されようともバーンスタインの(どちらかというと)楽観的な側面が醸し出される。
なるほど、プロコフィエフが木魂する。
もちろんジャズ音楽も。
これは私の考えだが、ピアノ独奏付きの交響曲を作曲するには、まず詩と自分とを完全に一体化させることから始めるべきだと思う。その意味で、ピアニストは自伝の主人公のような役割を果たす。オーケストラという鏡に自分を映し、いま置かれている環境の中で分析しながらその姿を見つめることになる。だから、厳密に言えば、この作品は「協奏曲」ではない。もっとも、私はオーデンの詩がイギリスの詩の歴史の中でも比類ない完璧さを備えた傑作の一つであると考えている。
詩(そして音楽)の最も重要な部分は、迷い、苦しみながら信仰を求める過程を描いたところである。最後に、登場人物のうち二人は、受け身の姿勢ではあるが信仰を認めることを表明する―だが、盲目的に信じるだけで、信仰を自分の日常生活と結びつけることはできないことも明らかにする。
~ジョーン・パイザー著/鈴木主税訳「レナード・バーンスタイン」(文藝春秋)P183
バーンスタイン自身の言葉のうちにすべてがある。
彼自身もおそらく生涯迷い、苦しみながら信仰を求め続けたのだろう。
それでもバーンスタインの場合、その過程は妙に明るい。
そして、最後は(信仰ではなく)音楽によって彼自身も救われるのである。
バーンスタイン:
・交響曲第2番「不安の時代」(W.H.オーデンの詩によるピアノと管弦楽のための)(1977.8Live)
ルーカス・フォス(ピアノ)
・交響曲第3番「カディッシュ」(管弦楽、混声合唱、少年合唱、語り手とソプラノ独唱のための)(1977.8録音)
モンセラート・カヴァリエ(ソプラノ)
マイケル・ワガー(語り手)
ウィーン・ジュネス合唱団
ウィーン少年合唱団
レナード・バーンスタイン指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
極めつけは「カディッシュ」!!
カヴァリエによる第2のカディッシュ、すなわち子守歌から湧き出る哀感と崇高さ。
「平和を与え給え、安らぎを与え給え」という歌には、神々を肯定する、否、大自然大宇宙とひとつになろうとする意志が垣間見られる。
そして、第3楽章スケルツォとフィナーレにおける絶望的音色と静謐で透明な音調の入り交じる美しさ。懺悔を経、神への不信を越え、(合唱、ソプラノ独唱共々)一体となる神秘と喜び。おそらくこの作品も、実演に触れた時にその真髄がわかるのだと思う(24日のインバル指揮都響の定期演奏会でついに体感できることに感謝する)。
バーンスタインは「カディッシュ」についてかく語る。
私の作品の中で無調音楽を使った最も顕著な例は、おそらく交響曲第3番の「カディッシュ」だろう。ここには、シェーンベルクのシステムにならって慎重に練り上げた非常に複雑な十二音音楽がかなり含まれている。じつを言うと、これがボストンで初めて演奏されたときのことをよく覚えている。シャルル・ミュンシュ指揮のボストン交響楽団によるアメリカ初演だった。当時アヴァンギャルド芸術家を自称していた若い作曲家たちがこぞってリハーサルを聴きにきた。私がついに十二音音楽を書いたという噂を耳にしたからだ。その中には、アーサー・バーガー、ハロルド・シャペロ、レオン・カーシュナーとハーヴァードのグループ、ブランダイスのグループがいた。彼らはとても興奮していたようだったが、交響曲の中ほどで第二のカディッシュが始まり、ソプラノが歌いだすと(子守歌で調性音楽)、彼らはがっかりして両腕を上げ、こう言った。「やれやれ、これなんだから。この曲もここまでだな」
私の知るかぎり、彼らはその後リハーサルにやって来なかった。それほど単純で心が狭いのだ。言うまでもないが、彼らはまったく理解していなかった。この曲の大きな狙いの一つは、こういうことなのだ。十二音音楽で示された苦悩は―この曲の形式の一部なのだが―調性と全音階に屈してしまう。そこで最後に勝利を得るのは―信仰を肯定するのは―調性なのだ。
同上書P350-351
最後に勝利を得るのが調性だとはよく言ったもの。
世界はシステムの中でこそ開くのだ。
ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。
>最後に勝利を得るのが調性だとはよく言ったもの。
> 世界はシステムの中でこそ開くのだ。
だとすると、「抽象」が幅を利かせる絵画や彫刻・陶芸などの美術のほうが、音楽よりも自由度が高いとはいえないでしょうか?
音楽に、スポーツやゲームのような、はっきりとした勝ち負けはあるのでしょうか。
>雅之様
少し言葉足らずの面もありましたが、いわゆる前衛者に対してのバーンスタインの揶揄が焦点で、調性を完全破壊しようとするのは間違いだという意味で勝者だと思った次第でした。
美術にせよ、自由度が高いとはいえその裏にはきちんとしたデッサンや描写があってのことですから。
十二音も平均律あってのそれだと思うのです。
おっしゃるように音楽そのものには勝ち負けはないと思います。
一般大衆の讃辞をどれだけ獲得したかという点では勝ち負けはありますが。
>一般大衆の讃辞をどれだけ獲得したかという点では勝ち負けはありますが。
やはり勝ち負けの尺度はビジネス面だけですね。カラヤンとかAKBとか。
>雅之様
>カラヤンとかAKBとか。
笑