ショスタコーヴィチの「カテリーナ・イズマイロヴァ」を聴いて思ふ

shostakovich_katerina_provatorovショスタコーヴィチを廻る。
ショスタコーヴィチの生涯は、時代的にも国家的にもとても閉ざされた、大きな枠の中での新しき創造という、相反する行為を余儀なくされたものだった。とはいえ、そのことは封建社会の中で音楽作品を創り続けなければならなかったモーツァルトらと同様で、スターリン率いるかの社会主義国家だったからといって決して特別なものではない。乱暴ながら音楽芸術というものを括ってしまうと、規制であるとかルールであるとか、あるいは抑圧されるものがあってはじめて傑作が生まれ得る、創造し得るものなんだとあらためて確信する。

道すがら「カテリーナ・イズマイロヴァ」を聴く。旧「ムツェンスク郡のマクベス夫人」というこの問題作は、音楽だけを享受しても真に刺激的だ。そもそも性欲や不倫や、挙句の果ての殺人や自殺や、そういう人間世界の「負なるもの」が物語のうちに充溢する作品などそう多くあるものではない。しかし、「負」とはいえ、どの人間の深層にもそういう本能、あるいは欲望が渦巻くであろうことは否めない。これこそ神が人類に与えた原罪のひとつ。ところが、こういうものを隠そうとすればするほど逆に様々なトラブルが生じるのだ。腹の探り合い、駆け引き、すべては人間世界のエゴから端を発するもの。
ショスタコーヴィチはそこに直接的に問題を提起する。ひょっとすると、彼の深層には台頭しゆくスターリニズムへの恐怖と抵抗が厳然と存在し、宗教や信仰を否定する体制に対して絶対的な服従を拒否し、そういう心を取り戻そうと躍起になった表れとしてこういう過激な作品が生まれたのではないのか。聖と俗とは表裏一体。いわば神聖なる信仰心とポルノは表裏の関係で、この際ある種同義であると僕などは考えるのだが、いかがなものだろう。

「マクベス夫人」は体制からの批判により舞台上演を暗に禁じられ、作曲者自身も蓋をした。しかし、どんな創造物も人々の目に触れない限りは用を足さない。無意味な芸術作品など創造者のマスターベーションに過ぎぬ。しかしながら、よりによってショスタコーヴィチの作品である。時代が追いついたときに大衆が放っておくはずがない。
作曲者はあまりに極端なシーンや台詞については改作し、あるいはカットし、さらには必要なパートを追加し、新たな作品として甦らせた。

ショスタコーヴィチ:歌劇「カテリーナ・イズマイロヴァ」作品114
エレオノーラ・アンドレーエヴァ(カテリーナ、ソプラノ)
ゲンナジ・エフィモフ(セルゲイ、テノール)
エドゥアルド・ブラヴィン(ボリス、バス)
ヴァチスラフ・ラジェフスキー(ジノーヴィ、テノール)他
ゲンナジー・プロヴァトロフ指揮スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念国立モスクワ音楽劇場管弦楽団&合唱団(1963録音)

実に素晴らしい。第1幕の暗鬱で幻想的な音楽が徐々に爆発し、終幕では狂乱の、しかも半ば「愉悦的」ともいえる音楽が鳴り響く。カテリーナがソネートカを伴って命を絶つ最後の瞬間のあの驚愕の響きは聴く者を金縛りに遭わせるのだ。

残念ながら僕はこの舞台に触れたことがない。いずれと思いながら、つい足が遠のきいつもその機会を逸する。しかしながら、こういう過激な作品の内に「真の愛」を見出した以上もはや無視はできまい。近々実演を堪能することにしよう。

 


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