昨日の続き。
世の中が、世界というシステムが特定の財閥によって牛耳られていることを知るにつけ、音楽という世界も何百年、あるいは何千年とその「しくみ」の中で生まれ、聴き継がれてきたということが理解でき、何とも言えぬ想いが湧き上がる。果たして政治と芸術とは切り離せないのだろうか?人間社会の中で起こっている以上、それは間違いなくそうだと言い切れる。音楽といえども「需要」の上に成り立つものだから。当たり前のことだけれど、あらためてそのことを思うにつけ複雑な気持ちになる。
山田由美子著「原初バブルと《メサイア》伝説~ヘンデルと幻の黄金時代」を読み終えて、そのことを確信する。グルックやベートーヴェンが尊敬したヘンデル。彼の創造行為というのは英国王ジョージ1世の政治と別個に考えることはできないものだとわかった。ヘンデルが何故イギリスに活動場所を移したのか、そして最終的に帰化までしたのか、その理由もよくわかった(実に当初は「諜報活動」、いわゆるスパイ活動のためのイギリス訪問及び滞在だった)。
例えば、ジョージ2世の戴冠式のために生み出されたアンセム。ここには能力の高くないこの新王に対しての「皮肉」が込められているとのこと。他人の楽曲や自作からの引用によって「わかる人」にその意図を伝えるという方法。そういう視点で彼の音楽を捉えればオペラにせよオラトリオにせよ、すべて「興味深く」聴くことができる。当時も、確かにわかる人にしかわからなかった意図であろうが、その「二枚舌」的創造スキルには舌を巻くものがあった。ヘンデルの天才は類稀な創造力にだけあるのではない。プロデューサとしての力量、他人に取り入るコミュニケーション能力、全体を俯瞰して捉えられる視点、そういう特別な力も備わっていたことが驚異的なのである。
ところで、「二枚舌」といえばソビエト連邦の誇る天才、ドミトリー・ショスタコーヴィチを思い出さずにはいられない。スターリン独裁下のかの国で無事に生き延びられたのは、彼が「上手に」音楽を生み出せたからである。それには音楽の才能が要る。しかしながら音楽的才能だけでなく「上手な生き方」を彼は心得ていた。ヘンデル同様に。その意味で、ショスタコーヴィチはヘンデルの生まれ変わりだと想像するのも決して誤りではないのかも・・・。
そんなことを考えていたらショスタコーヴィチを聴きたくなった。
どちらかというと体制に迎合した、ポピュラーな作品あり、ロシアの詩人の詩に基づく歌あり、あるいは編曲ものありというロジェストヴェンスキーのセットものから抜粋。ショスタコーヴィチの縦横無尽の創造力の宝庫。
ロジェストヴェンスキーの指揮も最高。こういう斜に構えた(?)作品を振らせればロジェヴェンの右に出る者はいない。
ショスタコーヴィチを聴いていると「真実」が見えなくなる。いつも誤魔化されているような気分(笑)。しかし、音楽とは幻想であり空想。それで良しなのである。
「祝典序曲」はヘンデルの王室のためのファンファーレの様だ。「英米の民謡」には聴き慣れたメロディが現れる(第6曲はスコットランド民謡”Comin’ thro’ the Rye”。日本では小学唱歌「故郷の空」で有名。信号を横断する時の音楽です)。白眉は「ジャズ組曲第1番」。こんなにも場末の雰囲気を醸し出し、それでも自堕落な印象を与えないポピュラー音楽は他にないかも。無為な退廃に陥らず、旋律で聴かせ、しかも愉悦と哀愁に満ちる。
音楽が生み出された背景を知ることは真に面白い。
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ショスタコーヴィチを聴いていると「真実 」が見えなくなる。いつも誤魔化されているような気分(笑 )。しかし、音楽とは 幻想であり 空想。それで良しなのである。
⇒ この一文の深みったら もう、 うーん、 文豪並ですよ、岡本先生。これは 潜在的に 殆ど無意識にでしたが、私も頭の中で まったく同じことを感じていたものだったので驚きました。でも きっと このご指摘には 音楽をひとつの体験として享受する人たち 誰しもが共感できる 普遍性と真実とがあるのだろうと 思い至りました。大拍手。
>“スケルツォ倶楽部”発起人様
文豪並とは少しほめ過ぎなのでは??(笑)
直感的に出てきたのがあの言葉でした。
共感いただけて嬉しいです。