フルトヴェングラー59回目の命日にワーグナーを聴いて思ふ

wagner_orchestral_works_furtwangler_testament14年間にも及ぶ、コジマのリヒャルトとの生活を詳細に綴った日記を読みながら、コジマという女性の繊細さと、一方でエゴイスティックな図々しさにも似た性質が共存する様を垣間見、人間とは実に恐ろしい生き物だと思った。基本的には他人に見られることなど想定しなかったであろう日記ゆえ心の裏側までもが事細かに書かれており、実に面白い。
何よりコジマという女性がどれほどリヒャルト・ワーグナーの才能に惹かれていたのかが手に取るようにわかるのだから。

例えば、彼らが共に生活を始めてまだ1年にもならない頃、すなわち1869年10月31日、日曜日のこと。

子供たちをまじえて食事。別れ際にリヒャルトはエーファの目をのぞき込み、こう言った。「個体とは何か。無だ。こうして子供の顔をのぞき込んで、そこからひとつの類全体が語りかけてくるのを体験すれば、そのことに気づくはずだ」

何という意味深い箴言!!どんなに浪費癖があり、一般的社会生活に疎いとしても、こういう言葉が即座に出てくる人はそうはいないだろう。無とはつまりゼロ、そう、中庸、調和であるということだ。何たる感性!ワーグナーはやっぱりわかっていた。こういう天才を前にコジマは自身のエゴを捨てざるを得ず、ひれ伏したということだ。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー死して早くも59年。彼の動的なワーグナーを時折無性に聴きたくなる。「中庸」というには少し「揺れ動き過ぎる感」のあるワーグナーだけれど、やっぱりここには「永遠」があるんだ。

ワーグナーについてある判断を下そうと思ったら、彼を知らなくてはならない。ぼくには、シューベルトと並んで、ベートーヴェン以降の最大の音楽家であるように思われる。
~1903年、17歳の青年フルトヴェングラーのヒルデブラント宛手紙から

しかし以下のことは銘記しておかねばならない。つまり、多様な形態をとるこれらすべての手段を貫くものは一つの精神であり、それらは一つの意志によって導かれているのである。この意志は、およそ偉大な芸術の意志がいずれもそうであるように統一的であり、単純である。
~「『指環』の音楽について」と題するフルトヴェングラーの1919年の論文より

ワーグナー:
・歌劇「ローエングリン」第1幕前奏曲(1947.8.30Live)
・歌劇「タンホイザー」序曲(1949.2.17&22録音)
・ジークフリート牧歌(1949.2.16&17録音)
・楽劇「神々の黄昏」~ジークフリートのラインへの旅(1949.2.23録音)
・楽劇「神々の黄昏」~ジークフリートの葬送行進曲(1950.1.31録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

どうしてこうも感動的なのか!本人の言葉通り、まさに地で行く意志の統一感と単純さ。特に「ローエングリン」前奏曲が出色。1947年のモノーラルの、ルツェルン音楽祭における実況録音であるにもかかわらず音が鮮明で音楽に勢いがある。
「タンホイザー」序曲の、コーダにおける金管の主題の荘厳さ。そして何より、その金管を支える弦楽器群の狂おしいばかりの伴奏!!ここにも大いなる意思が宿る。

 


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