フィッシャー=ディースカウとポリーニによる「冬の旅」ザルツブルク・ライブを聴いて思ふ

schubert_winterreise_dfd_polliniようやくフィッシャー=ディースカウとポリーニによる「冬の旅」ザルツブルク・ライブを聴いた。このたった1度きりの奇跡の共演は確かに何かが違う。

自然界に存在するものはすべて曲線だ。どんなものも柔らかく、無限の広がりを見せる。一方、人間の創造物はどれも直線に支配される。果たしてそこには自然に対抗しようとする無意識のエゴが働くのかどうなのか、それは僕にはわからない。しかしながら、大自然と人間とが真に交わる時、そう、曲線と直線が融合する時、そこには意図せず調和の美が生まれる。

東京というコンクリート・ジャングルにいると息が詰まるほどなのはこの「調和の美」が崩壊しているからなのかも。曲線よりも直線が幅を利かせる街並みに、慣れてしまったとはいえ、時に呼吸が削がれるのだ。

音は波動である。つまり曲線だ。そこに人工的直線意志が入ることで他とは一線を画する芸術が生まれた。それが音楽の源なのだろう。

稀代の「冬の旅」を聴いて受けた印象の第一は、いわばフィッシャー=ディースカウの曲線的歌唱とポリーニの直線的ピアノ伴奏のがっぷり四つでのパフォーマンスによる調和。両者はいずれも冷静で悟性に語りかける音楽家であるが、外面がどうやら異なる。ここではもちろんディースカウがリーダーシップをとる。しかし、二人が互いに影響を与え合い、曲線的要素と直線的要素が絶妙の交わりを生み出しているのだ。

シューベルト:連作歌曲集「冬の旅」D911
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)(1978.8.23Live)

前半12曲と後半12曲の次元の差を見事に表現する二人。いや、言い方が少し違う。ディースカウは曲集が進行するにつれいよいよ熱を帯び、主人公になり切るのに対し、伴奏者のポリーニはより冷静で客観的だ。そう、曲集が進むにつれピアノの表現はより冷徹になる。まるで主人公を突き放すかのように。
しかし、そんな二人であるがゆえに、パフォーマンスはまさにディースカウが表現する「シューベルトの明るさの内に在る暗さと、暗さの内に在る明るさ」の体現と化す。

第13曲「郵便馬車」の、努めて明るく振る舞おうとする姿勢と、そもそもここには悲哀しかないことの対比が何と巧く音楽で表現されることか。ポリーニのピアノが跳ねる。
第22曲「勇気」では、珍しくポリーニが音を外してしまうが、生きる勇気と裏腹にそこにこそ主人公の心の真実、絶望の叫びが聴こえるようで涙を誘う。続く第23曲「幻日」のなんという退廃的な響きよ。しかしそんな中、終曲「ライアーマン」に僕は希望を見る。沈潜し行くピアノの音とフィッシャー=ディースカウの空虚な響きの歌唱を耳にして涙も枯れそうになるが、この暗闇の世界にこそ光が見えるんだ。

暗くて明るいことも、明るくて暗いことも・・・といえば、シューベルトのトーンのようだ。

ディースカウのこの言葉がすべてを包み込む。
1978年8月23日の祝祭小劇場にいた人々は何を思ったのだろう?
徐々に盛り上がる拍手と歓声を聞きながら35年前のザルツブルクに思いを馳せる。

 


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