エマヌエル・シカネーダーの台本による「魔笛」。第1幕第1場のト書がまずは目に留まる。
タミーノがきらびやかな日本の狩衣をまとって、岩山のひとつから駆けくだってくる。手には弓を持っているが、矢はない。蛇が彼を追いかけてくる。
~名作オペラブックス5モーツァルト「魔笛」P59
そんな演出の舞台は観たことがないが、タミーノの衣装は日本の狩衣だという。なるほど現代における世界の救世主としての日本人のあるべき姿を予言するかのようなオペラだ。しかも、タミーノが手にするのは弓のみ。これは何を意味するのか?このままでは武具としては機能しない。タミーノは戦いの象徴ではないということか。日本では古来弓矢は武器の他に呪術や祈祷の道具の象徴として扱われていたことを考えるとこれは霊力としての弓矢を意味し、しかも冒頭の時点では弓しか持たないタミーノはその霊力がまったく使い物にならない状態であることを示すのかもしれない(この物語はパミーナを救うと同時にタミーノが自身の本来の「道」を発見し、霊的能力を取り戻す旅を表現したものなのだろう)。
高橋英郎著「モーツァルトの手紙」を読む。
モーツァルトの、最晩年の「魔笛」の世界に行き着くその魂の大本が、すでに幼少の頃にあることがよくわかって真に興味深い。彼の人生はほぼ「旅」であったのだが、あの時代の大陸移動の大変さや伝染病罹患(簡単に死に至ることも多々)による幾度もの身体的苦痛を考えると、彼はそれらを乗り越えてやっと35年という時間を生きることができたのだ。
悟りの片鱗。
1777年11月29日付、旅先のマンハイムから父レオポルトに宛てた手紙から。
今日までぼくら4人とも、この通り、幸福でもなければ不幸でもありませんでした。そして、ぼくはそれを神に感謝しています。
P49
何気ない、ふと読み飛ばしてしまいそうなこの言葉の裏に僕はモーツァルトの「悟り」を見る。善も悪も思わない、そもそも物事を二元論で片付けない。あるのは感謝だけだといいうまさに「魔笛」が示す世界を21歳のモーツァルトは既に捉えていたということだ。
これまでさんざん耳にしてきたモーツァルトだが、何度聴いてもその音楽に浸る最中は感動している自分に気づく。そしてそのことは若い時より一層顕著になっている。年を重ね、ようやくモーツァルトの音楽が真にわかるようになってきたということなのか。
今年の初めに亡くなったヴォルフガング・サヴァリッシュが30年前にバイエルン国立歌劇場で棒を振った映像を観た。そこにはグルベローヴァの夜の女王がいて、ルチア・ポップのパミーナがいた。サヴァリッシュも最高に脂の乗った時期で、NHK交響楽団の客演指揮者として頻繁に来日し、名演奏を聴かせてくれていたあの頃。
モーツァルト:歌劇「魔笛」K.620
クルト・モル(ザラストロ、バス)
フランシスコ・アライサ(タミーノ、テノール)
ヤン=ヘンドリック・ローテリング(弁者)
エディタ・グルベローヴァ(夜の女王、ソプラノ)
ルチア・ポップ(パミーナ、ソプラノ)
ヴォルフガング・ブレンデル(パパゲーノ、バリトン)
グドルン・ジーベル(パパゲーナ、ソプラノ)
ノルベルト・オルト(モノスタトス、テノール)ほか
バイエルン国立歌劇場合唱団
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団
アウグスト・エヴァーディング(演出)(1983Live)
演出はどちらかというと正統派。衣装や舞台も時代を感じさせる。そして、今となってはDVDの画質の粗さも気になるところ。それでもこの映像は不滅だ。サヴァリッシュの溌剌とした指揮もさることながら、やっぱり若きグルベローヴァとポップの姿を拝めるところが嬉しい。
「魔笛」は最高のオペラ、いや、芸術作品だ。クラシック音楽愛好者以外でも、とにかくひとりでも多くの人たちに観ていただきたい。シカネーダーとモーツァルトの予言。人類が行き着くべき、在るべき形がここにある。
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