カラヤンのショスタコーヴィチ第10交響曲(1981)を聴いて思ふ

shostakovich_10_karajanそれまであったストレスがなくなるとき、解放が起こる。
親子の確執然り、仕事における組織での葛藤然り。

ストレスそのものは正負両方の働きをする。ストレスがまったくなくなってしまえば、人は生きる力さえ失ってしまう。物事はすべて捉えようであり、あらゆる事象をプラスに解釈できればそれに越したことはないが、人間の感情というのはそんな簡単なものではない。頭ではわかっていても心ではついていかないというのが世の常。だからこそ時間をかけ、自身を受け入れる作業を全うしてゆくことが大事なんだ。一歩一歩着実に。

「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」と言われる。半世紀を生き、ようやくその意味が理解できる。人生においては確かに山があって谷があり、天井があってどん底がある方が面白い。挫折というのは必要なんだ。底にいる最中はそんな風には思えないのだけれど。

スターリン没後に極めて短期間に書き上げられたショスタコーヴィチの第10交響曲を聴いて、ここでは壮大な意思が反映され、しかも作曲家が長年溜め込んでいたあらゆる感情や思考が爆発、解放されているのだと思い至る。例えば短い第2楽章スケルツォは「スターリンの肖像」だといわれるが、ショスタコーヴィチはあえてここでかの独裁者を賞賛するのだと直感する。もちろん歴史的に許され得ない暴挙は多々あるにせよ、ソビエト連邦のあの時代があって自身の芸術が一層深まっただろうことをどこかで彼はわかっていたんだと。なぜなら、ショスタコーヴィチ独特のアイロニーが消え去り、あくまで真面目に正面から音楽を創造しようとしている様が感じられるから。

ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調作品93
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1981.2録音)

カラヤンの流儀のひとつに、スラヴものだろうと何だろうと、ともかく表面を徹底的に磨き上げ、音楽を洗練の極致に置くという点がある。ショスタコーヴィチのシンフォニーで唯一採り上げた第10交響曲も実に繊細であり、ソフィスティケートされた音を維持しつつ、強音を轟かせるところでは有機的な響きを失うことなく強烈な音を紡ぎ出す。そして、静寂の場面においてはこれでもかというほどの微かな音で作曲家の心理を見事に突き、音に反映させる。

終楽章に至り、ようやくショスタコーヴィチは本当の「自分自身」を取り戻す。金管の咆哮もティンパニの炸裂も決して無味乾燥な阿鼻叫喚に陥らず、積もり積もったそれまでの感情吐露がどこか冷静になされるよう。

ここには新たな時代の到来に対する喜びが表現される。
と同時に、それまでの窮屈だった時代への懐古と、そんな時代であったにもかかわらず、であるがゆえに頑張ることができたという一抹の寂しさすら僕には感じ取れるのである。

どうしてカラヤンはこの作品だけをレパートリーにしたのか・・・。
かつてナチスの党員であった自身が、ドイツの崩壊とともに背負うことになったカルマをショスタコーヴィチの内側に投影し、しかもそのことを如実に示すだろう作品が第10番のシンフォニーだったということでは?考え過ぎかな・・・。

京都のとあるホテルにて。

 


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