パールマン&アシュケナージのブラームスを聴いて思ふ

brahms_perlman_ashkenazy昨日の続き。武満徹はブラームスの「雨の歌」と呼ばれるソナタを例に挙げ、次のように語る。

今の音楽がどうも歌を忘れすぎているから、ブラームスのような昔のものから学んで―昔に帰ろうということじゃなくて、新しいものを創るということはとても作曲家にとっては大事だと思う。
だから僕は、ブラームスをただ気分的に「ああ、ブラームス、好きですよ」と言っているんじゃなくて、僕はブラームスを本当に敬愛して、尊敬しているんです。しかも、旋律、歌、ただメロディだけということじゃなくて、ハーモニー、ひとつのメロディの中にも構造がある。それを大事だと思っている。

人が生きていく上においても同様のことがいえる。果たしてブラームスは人間関係の中で自身の作品のように「調和」というものを体現できていたのかそれはわからないけれど、19世紀後半にあって、少なくとも職業上は決して「保守的」な作曲家だったのではなく、極めて創造的でチャレンジングな人であったことが想像できる。

時折、今やごくたまにブラームスの音楽が聴きたくなるのは、決められた枠の中で大いなる飛翔を試みるその姿勢に感化され、実に優れた音楽として形に残されたものを心身に浴びせたいという欲求からなのか。ブラームスは不本意な作品は決して公表しなかった。ということは、僕たちが現在耳にできる音楽はすべて本人のお墨付きであり、相当の自信を持って世に送り出された至宝というこだ。武満氏をして「敬愛、尊敬」という言葉を使わしめる彼の音楽作品を大事にしたい。

ブラームス:
・ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78
・ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調作品100
・ヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調作品108
イツァーク・パールマン(ヴァイオリン)
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)(1983.4.20-23録音)

かつて繰り返し聴いた音盤。本当に懐かしい。30年弱の歳月を経て、久しぶりに耳にしてブラームスの音楽の素晴らしさと同時に、パールマン&アシュケナージという黄金コンビの音楽には当時の他と一線を画するハーモニーがあったことを再確認する。

ト長調ソナタ第2楽章アダージョの「哀しみ」の旋律をパールマンは心を込めて歌う。アシュケナージの伴奏も実に重みのある荘厳たるものだ。
1896年、クララ・シューマンの埋葬式の後、ライン河畔での静養中、ブラームスは友人とこのソナタを演奏したそうだが、ここで突然クララを思い出し、演奏を続けることができなくなってしまったのだと。死の数ヶ月前のこと・・・。そんなエピソードを知って聴くだけで、彼のこれらの作品が真に愛おしくなる。

どうやら「歌」というのは感情にリンクしているようだ。一方、構造というのは「全体観」、すなわち知性に発露されるものだろう。ならばブラームスの音楽というのは真にバランスがとれているということだ。パトスとロゴス、保守と革新、陰と陽・・・、すべてが巧みに交差しひとつになる。見事である。

 


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