シューベルトは死の2週間前の1828年11月4日に、大理論家ジモン・ゼヒター(後にブルックナーの先生となる)に対位法のレッスンを受ける予定だったのだという。実際には、当時の体調不良から考えて受講は無理だったのだろうが・・・。
まだまだ自身の命が尽きるとは考えていなかったシューベルトは、弱点である「対位法」や「フーガ書法」についてより一層磨きをかけようと考えていたのだろう。常に努力を惜しまず、前に前に進んでいこうとする意思がこういうところからもみてとれる。
ジュリーニの演奏する「ミサ曲第6番変ホ長調D.950」を聴いていて、この美しいミサ曲がバッハの影響下に書かれたことは間違いないだろうことがよくわかる。当時のシューベルトにとってバッハとモーツァルトこそが心の拠り所ではなかったのか・・・(実際に交流のあった楽聖ベートーヴェンは別格的存在)。
19日(土)~22日(火)まで「音浴じかん」や母校での音楽の授業のため妻が岐阜に帰省していた。それぞれのイベントはどれも大成功だったようで、来年は未就学児童&ファミリー向けのコンテンツがより一層話題になりそうな気配である。いよいよ愛知とし子の時代か?!(笑)
昨日、瑞浪小学校長の林茂雄先生から妻が電話を受けた。素晴らしい授業だったこととあわせ貴重なアドバイスをいただけたようだが、これが僕にとっても非常に勉強になった。彼女は1年生の授業を担当したらしいのだが、子どもが騒ぐときに「静かにしなさい!」という言葉を投げかけるだけでは子どもは決して静かにならない。それぞれの子どもには子どもなりの事情がある。同じ私語をしていても、先生のお話や弾いてくださった音楽について友達とおしゃべりしている場合もあるし、自分たちのことをもっと注目してほしいという意味で騒ぐ場合もある。ただ命令口調で接したところで子どもは言うことを聞かない。そういう時は、子どもの意識を自ずとこちらに向けるような努力(例えばピアノで有名なメロディを奏でるとか)をすることで結果的に静かになるんだよ、と。なるほど、深い。子どもに限らず大学生だって同じことである。押さえつけようとするのではなく、あるいはルールを単に守らせようとするのではなく、いかに興味をもたせるかが重要だということだ。
斯様なアドバイスだけでも大変にありがたいのだが、林先生からまたCDのお土産をいただいた。BISレーベルから発売された鈴木雅明&BCJによるバッハの6大宗教曲ボックス。毎々ありがとうございます。まずはロ短調ミサ曲を繰り返し何度も聴く。
僕にとっての「ロ短調ミサ」はずっとカール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管のものが唯一だった。時にミシェル・コルボのものを取り出して聴いてはみるものの、結局はリヒター盤に還ってゆく。それでもそうそう繰り返し聴き続けられる演奏ではなかった。厳し過ぎて息が詰まるのである。もちろんミサ曲の性格上、本来は何度もリピートして聴くものではないのだろう。(そんなことは不可能なことだが)宗教性を棚に上げて純粋に音楽だけに浸るのにはあの演奏はある意味完璧過ぎた。そこへこの鈴木雅明&BCJ盤の登場である。いつだったか、鈴木雅明氏との対話を収録した「バッハからの贈りもの」(春秋社)を読んで以来(この本は滅法面白かった)、BCJについては頭の片隅で気になっていた。透明感のある、そして滔々と流れる水のような音楽。極めて民主主義的な姿勢の中で創られているからこその純白さ。
加藤:先日、BCJのリハーサルを拝見させていただきました(2000年12月5日~7日、『ロ短調ミサ曲』)。
鈴木:われわれの練習をご覧になっておわかりになったでしょう?なにか尋常でない事態が起こっている、と(笑)。僕がここをこうしようよ、とみんなに説明する。すると、「何で?」とか言い返してくるわけですよ。そこで話し合って、こちらは説得にかかる。了承を得られなければ、僕のほうが譲歩する。一言で言えば、そういうふうなやりとりなんです。
加藤:現場主義なんですね。
鈴木:演奏者は、実際楽器を弾いているし、声を出しているでしょう?だから、僕がここはこういうふうにしたいといっても、なかなか思い通りにいかないこともある。場合によっては、彼らの望むようにやったほうが、自分が思っている効果により近いということもあるんですね。・・・
(上記「バッハからの贈りもの」P335から引用)
おはようございます。
>いよいよ愛知とし子の時代か
御意!
更に前回のコメント欄での話題の続きを・・・。
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/post-310/#comments
>キャリア理論で有名なクランボルツ博士がキャリアにおける「計画された偶発性」(Planned Happenstance Theory)というものを提唱している
>「計画された偶発性」理論とは、予期しない出来事がキャリアを左右するのだが、その予期しない出来事も実は計画されているものなんだというものです。
私はそのことで、量子力学の確率解釈とともに、「バタフライ効果」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E5%8A%B9%E6%9E%9C
も連想しました。
「アマゾンを舞う1匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせる」とか、「風が吹けば桶屋が儲かる」とか・・・。
バッハが数多くの傑作を残さなければ、モーツァルトやベートーヴェンの傑作も、ああいう形では存在せず、シューベルトの傑作も異なったものになり、チャイコフスキーもショスタコもどうなっていたかわからない・・・、本当に人間っていう存在は、過去も現在も未来も、相互作用で生きているのだと、つくづく実感します。
それが 運命論的な「計画された偶発性」なのか、自分の生き方次第で「計画された偶発性」さえ、より良く変えることが出来るのか、これは哲学にとどまらず物理をも巻き込む永遠の命題でしょうね。
「バタフライ効果(ばたふらいこうか:butterfly effect)とは、カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象のことを指す」『ウィキペディア』より・・・、
私は、みんなでトイレ掃除やゴミ拾いを毎日続たら、「小さな差が、やがては無視できない大きな差」になって、日本の「計画された偶発性」も、良い運命に変わるんじゃないかと信じております(どこかで聞いたような台詞・・・笑)。
>この1年間ありがとうございました。
私のほうこそ、心の底から感謝しております。この場所で思考を深化させる習慣を持てたことが、仕事にもプライベートにも直接的・間接的に役立ち、それがとても良い変化をもたらしました。これも「計画された偶発性」? それとも「バタフライ効果」なのでしょうか?(笑)
ジュリーニの「ミサ曲第6番変ホ長調D.950」は、彼の残した録音遺産の中で、最高に良質なもののひとつだと思っています。
鈴木雅明&BCJでは、バッハ「マタイ受難曲」の実演を聴いて、とてつもなく感動した体験があります。日本人の美質とピリオド奏法の最高に幸せな出会いなのだと、ピリオド奏法否定派の私でさえ認めざるを得ません。彼らの演奏は清らかで美しく、真に素晴らしいです。
>雅之様
おはようございます。
>バッハが数多くの傑作を残さなければ、モーツァルトやベートーヴェンの傑作も、ああいう形では存在せず、シューベルトの傑作も異なったものになり、チャイコフスキーもショスタコもどうなっていたかわからない
確かに人間は過去も現在も未来も影響しあって存在しているということですね。時間も空間もそれぞれ「存在」にとって不可欠なものだと思います。
>みんなでトイレ掃除やゴミ拾いを毎日続たら、「小さな差が、やがては無視できない大きな差」になって、日本の「計画された偶発性」も、良い運命に変わるんじゃないかと信じております
同感です。
>この場所で思考を深化させる習慣を持てたことが、仕事にもプライベートにも直接的・間接的に役立ち、それがとても良い変化をもたらしました。
バタフライ効果でもあり、計画された偶発性でもありますね。
ところで、前にもおっしゃていた鈴木雅明&BCJの「マタイ」実演体、羨ましいですねぇ。機会があったら今度こそ行ってみたいと思っています。
[…] り、一切の無駄がないものだという内容に首肯する。特に、このカンタータの第2曲は「ロ短調ミサ曲」にも転用されており、その静謐な美は何物にも代えがたい魅力を持つ。リヒターの […]