ハイドシェックのK.595

そういえば、ちょうど20年前に宇野功芳指揮新星日響のバックで(!)エリック・ハイドシェックの独奏によるモーツァルトのK.595を新宿文化センター大ホールで聴いた。宇野さんが後々まで「大変だった」と語る、手に汗握るような即興的解釈が頻出する演奏だったので、いくらなんでもやり過ぎではないかと思う反面、こういうのはライブならではで、エリックの神業的パフォーマンスをこれでもかというくらい堪能できた一夜だったので、とても満足して帰路に着いたことを思い出す。
あれに比べると、昨日Blu-rayで観たバレンボイム&ベルリン・フィルも生温いし、以降実演でも何回かこの曲を聴いたと記憶するもののあの体験を越えるコンサートには出会っていない。
10代の頃、クラシック音楽を聴き始めの頃、ご多分にもれずモーツァルトにぞっこんだった時期があるが、きっかけとなったひとつはNHK-FMで初めて耳にしたラローチャ&ショルティによるK.595があまりに素晴らしかったことで、またひとつはちょうどその頃吉田秀和さんがかの「名曲のたのしみ」でずっと長い間モーツァルトの作品を採り上げていらっしゃり、それをしばらくエアチェックして好んで聴いていたことだった。
嗚呼、懐かしい。

とても長い間棚にしまいこんでいたハイドシェックがビクターに録音したモーツァルトの協奏曲集から1枚を取り出した。発売当初聴いたときは、あまりにロマンティックで恣意性すら感じるその演奏に辟易したものだが、20年の時を経て今聴いてみると、実に心に響く。確か実演もこのようなものでなかったか(いや、あれはもっとすごかった、変態だったか・・・笑、スタジオではだいぶ自己コントロールしてるんだろうな、彼も)。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466(カデンツァ:エリック・ハイドシェック)
・ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595(カデンツァ:モーツァルト)
エリック・ハイドシェック(ピアノ)
ハンス・グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団(1992.10.13&14録音)

録音日をみるとあのコンサート(1992.10.7)の6日後に録音されたものゆえ、解釈は間違いなく同系統だろうが、しかし僕の印象、記憶では明らかにちょっと違う。それがまたライブの面白さだが、それ以上にピアニスト、エリック・ハイドシェックの妙味、興味深さが際立つ。昔は鬼神が乗り移ったようななどと批評されたりもしたが、モーツァルトの時代はあれくらいの即興は当り前だったわけだし、縦横無尽、伴奏者泣かせの無手勝流プレイは、現代のジャズなどのポピュラー演奏という視点に立って聴いてみるとまだまだ「甘い」ともいえる(ジャズやロックなんかは元々の旋律が消えて、フレーズの一端だけが残り、一体何の曲だかよくわからないということも多々あるし)。

決してやり過ぎでなく、といってあまりに譜面に忠実過ぎる演奏でなく・・・。
エリックも売ることを考えたのだろうか(笑)。
適度に遊び心があり、しかも熱心で保守的なクラシック愛好家を敵に回すことなく(最近のポゴレリッチなどは行き過ぎるから逆の現象が起こっているけど)。

ちなみに、このスタジオ録音盤のピアノの音色の美しさは並大抵でない。
音の一粒一粒が大切にされ、しかもそのひとつひとつが浮いたり沈んだり、見事なバランスでコントロールされる様が手に取るようにわかる。
こんな素敵な演奏だったとは・・・。再発見なり。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。

>(ジャズやロックなんかは元々の旋律が消えて、フレーズの一端だけが残り、一体何の曲だかよくわからないということも多々あるし)。

だったら、下手でも、ご自分でも楽器を触ってみようというお気持ちになれませんか?

吉田先生は、新しいレコードを聴くとき、楽譜をあたって、ご自分でもピアノでその旋律を弾いてみるといったことを、若い頃から普通にやられていました。楽譜を引用しながらの、よく評論文を書いておられました。

宇野氏も、自身の合唱や指揮活動の経験が豊かだからこそ、誰よりも説得力のある評論を書けていたのだと思います。

今、現役で説得力も魅力もない音楽評論家は、だいたい演奏経験がなく、ひとりよがりや机上の空論に終始している輩だなあと感じています。

楽器に触ってみるって大切です。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
はい、これはもう何度もご指摘いただいていることで、言い逃れできないことです。
基本的に他人には「何事にもチャレンジせよ」、「考える前にやれ」という仕事をしているもので、そういう僕が楽器演奏については二の足を踏んでいるのは少々事情がありまして。
僕が昔から尊敬する批評家は、宇野さんや吉田さんのように実体験を持った方々で、おっしゃるように説得力が違います。若い頃から音楽を読んだり、演奏したり、創ったりする才能に憧れておりましたが、実にその裏には劣等感なるものも内在するように思います。
御託を並べずとにかくやれ、と言うことだと思いますが、その時期が来ましたら必ず動く予定です。
それまではいましばらくこの「ひとりよがりで、机上の空論」のブログ記事におつきあい下さい。

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