ヴィレンズ指揮ケルン・アカデミーのヘルテル「瀕死の救い主」(2013.1録音)を聴いて思ふ

j_w_hertel_sterbende_heiland341学問は人間の創造物である。
本来はジャンル分けなどできないはずの学問をよりわかりやすくするために人は「縦割り」を考案した。そして、専門化することによりひとつのことには詳しくなったが、おかげで全体観を失ってしまった。
同じく宗教も人間の創造物。真理は開かれたものであるにもかかわらず、宗教という枠に閉じ込めたことで理解しやすくはなったものの真理そのものからははずれてしまった。
なるほど、開かれているから自由なのだが、自由というのは選択肢がないと、すなわち閉じられていないと体感できないものなのだと。
確かに身体という不自由があるがゆえの自由。そのことを悟りというのかどうかはわからないが、古来、その解放を求めて人は修業を試みてきた。納得である。

ルール、あるいは規則性があるがゆえの自由であり解放。
古の宗教音楽は、決められた枠の中で自由に飛翔する信仰だ。それゆえに、聴いていて自ずと心動く。

ヨハン・ヴィルヘルム・ヘルテルの受難カンタータ「瀕死の救い主」(1764年聖金曜日初演)を聴いた。
イエス・キリストの死へと至る心理を描写した美しき音楽。

・ヨハン・ヴィルヘルム・ヘルテル:受難カンタータ「瀕死の救い主」(作詞ヨハン・フリードリヒ・レーヴェン)
ベリト・ノルバッケン・ゾルセット(ソプラノ)
ニコラス・ムルロイ(テノール)
アンドレアス・ヴォルフ(バス・バリトン)
ケルン・アカデミー合唱団
ミヒャエル・アレクサンダー・ヴィレンズ指揮ケルン・アカデミー(2013.1.10-12録音)

たとえ自己犠牲であろうと、死というものが決して暗いものではなく、むしろ現世と決別しながら魂を浄化する最高の瞬間であることを示唆する音楽劇。何というリアルさ!ここには哀しみはない。

本の中から、ある人物または歴史の一片が、もう一度生き返り、自分のまなざしを生きている人の目に映すことを熱望して、いわばむさぼるように飛び出して来るのだった。ハンスはこれをじっと受け入れながら不思議な思いに打たれた。そしてこのふいに来てたちまち消え去って行く現象に接して、自分がまるで黒い大地をガラスのように見通したか、あるいは神様に見つめられでもしたかのように、深く異様に変化したのを感じた。こうしたとうとい瞬間は、呼ばれないのに来、嘆かれないで消え去った。それはさながら、巡礼者か親しい客のようであったが、なにか見慣れぬもの神々しいものを身辺にたたえているので、話しかけたり、しいてとどまらしたりすることはできなかった。
ヘルマン・ヘッセ著/高橋健二訳「車輪の下」(新潮文庫)P125

飛翔する魂は純粋だ。しかし、その純粋さをむしろ潰そうとするのが枠にはまった宗教だった。そして、であるがゆえの自由の体得。
ヘルテルの音楽は純粋に美しい。コラールなどは、バッハからの影響が明らか。

 

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