祝祭である。観客の熱狂が物語る。初演においても、マーラーの生前で最大の成功を収めたそう。しかし、残念ながらそこに「真実」はなかった(ように僕には思えた)。
マーラーの第8交響曲は、第1部が中世のキリスト教の讃歌、第2部がゲーテの「ファウスト」終結部による歌詞を持つ。プログラムの解説の中で岡田暁生氏は、第1部が主イエス・キリストへの讃歌として単純に測れないのがマーラーのマーラーたる所以だと語るが、含みは様々あれど、やはりここはキリストを含めた一般的に言う「聖人」への讃歌とみていいのでは?しかし、それはあくまで序章に過ぎない(岡田氏も指摘するように)。重要なのは第2部。全編を通し、ゲーテの「ファウスト」のテキストをもとに「永遠なる女性性による救済」が高らかに歌われる。つまり、ベートーヴェンやワーグナーと同じく「女性の純愛」というものが鍵になるということだ。岡田氏はあえてそれをアルマへのメタファーと解釈するが、個人的な感情・思考は一切回避されているのでは?晩年のワーグナーの「再生論」への接近、傾倒を考えると、「大いなる母」への思慕、真の創造主の発見と崇敬を体得し、人類が目覚めるために森羅万象と一体となる、「母なる光」とつながることを何とか音化しようと悪戦苦闘(?)した末に生み出された作品だと僕には思えてならないのである。
インバル=都響 新マーラー・ツィクルス第Ⅱ期<ツィクルスⅧ>
2014年3月9日(日)15:00開演
横浜みなとみらいホール大ホール
・マーラー:交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」
澤畑恵美(ソプラノⅠ)
大隅智佳子(ソプラノⅡ)
森麻季(ソプラノⅢ)
竹本節子(メゾソプラノⅠ)
中島郁子(メゾソプラノⅡ)
福井敬(テノール)
河野克典(バリトン)
久保和範(バス)
晋友会合唱団(合唱)
東京少年少女合唱隊(児童合唱)
四方恭子(コンサートマスター)
エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団
「真実」は研ぎ澄まされた静寂の中で、安穏と内側に在るものだ。大騒ぎすればするほど、欲望が渦巻けば渦巻くほどそこから乖離する。醒めるのである。
素晴らしい演奏だったと思いたい。いや、冒頭のオルガンに導かれ、弾ける合唱の光彩や、打楽器の繊細で重心の低い響き、バンダを含めた金管群の濃密な咆哮など実際に素晴らしい箇所も多々あった。
第1部を終え、インバルは舞台袖に一旦下がった。そして一呼吸置き、肝心要の「ファウスト」終幕への棒が下ろされた。しかし、何だか透明なスクリーン越しに聴いているのではという歯痒さを覚えたのも事実(クライマックスの大音響を実現させるために全体的に音量を抑えた解釈だったからか)。どこか緊張感に欠ける、どうにもコーダで強引にクライマックスにもって行かれたような不自然さが拭えない(第1部も第2部も。これは僕の率直な感想)。別動隊による大ファンファーレを伴い、最後は会場が激しい音圧と熱気に包まれた。もちろんそれには痺れた。感動しないわけがない。それでも・・・、何か腑に落ちないものがあった(ひょっとすると僕自身の聴く体勢、あるいは状態の問題もあったかも)。
そういえば、第2部「恍惚の神父」のところでバリトンの河野氏が「出」を間違え、やり直したシーンがあった。インバルの指示ミスなのか歌手のミスなのか、ぼうっとしていてうっかり見逃したけれど、こういう事故もライブならでは。しかしながら、僕はこういう場面はいかにも人間の不完全さが露呈されるようで(良い意味で)興味を持つ。特に、マーラーのこの作品においては大宇宙の完璧さに対して示される人間の無意識の「愚かさ」「不自然さ」を垣間見るようで・・・。
ベートーヴェンの辞世の句と言われる言葉を思い出した。
諸君、喝采を、喜劇は終わった。
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ゲーテ「ファウスト」には、シューマンがドレースデン、デュッセルドルフに至るまで10年間かけて作曲した「ファウストからの情景」があります。最初、シューマンはオペラとして作曲したものの、オラトリオとしました。ぜひ、比較して聴いてみてはいかがでしょうか。
>畑山千恵子様
ありがとうございます。「ファウストの情景」も実演で聴いてみたいものです。