オイストラフの存在なくしてショスタコーヴィチのこの作品の構想はそもそもなかった。1946年頃の作曲者自身の言葉。
ダヴィッド・フョードロヴィチの並はずれた音楽性、音色の美しさ、素晴らしいテクニックを、当然のことだが、私は無視することができない。
~グレゴール・タシー著天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」P217
にもかかわらず、オイストラフ自身は当初、演奏に対して気乗り薄だったそう。そんな事情があり、同時に、1948年2月の共産党による作曲家批判により、作曲者自身も作品そのものを引っ込めた。
1948年4月に、第1回全ソ連邦ソビエト作曲家会議に集まった同僚たちを前に、ヴァイオリン協奏曲が先ごろ完成したと発表し、すぐ試聴してもらうつもりだと述べていたにもかかわらず、彼は賢明にも、その新作を棚上げした。1952年夏に初めてテープ・レコーダーを手に入れるとすぐ、彼はスコアを引っ張り出してきて、一音も省略せずに、オーケストラによる伴奏を四手、2台のピアノ曲となるよう綿密に編曲を行った。そして、オイストラフを説得し、この編曲を演奏しテープに録音してもらった。
~ローレル・E・ファーイ著藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチある生涯」P211
このあたりの紆余曲折が面白い。練習を重ねるにつれ、オイストラフの内側に化学反応が起こってゆく。
オイストラフは現代曲を得意としていたわけでなく、1955年8月の休暇中に友人にこう書き送った。「新しいシーズンに向けて、いろいろなことを学んでいます。何曲かに磨きをかけ、最後の仕上げをしました。中でもとくにショスタコーヴィチの協奏曲をマスターし、今では難なくそれを弾くことができます・・・自由に想像力を働かせ、自由な時間を持てたおかげで、それを徹底的に研究できました。今になって、ようやくそれが驚嘆すべき作品だということを、理解するに至りました。そう、心底それに惚れ込んでしまったのです。
~同上P255
作品にのめり込んだヴァイオリニストはこの曲をどのように捉えていたのか?
オイストラフは緩徐楽章を理解し、スケルツォに「有刺鉄線のような邪悪、悪魔、棘のような何かがこの音楽の中にあると人に思わせる」ことを発見した。
~グレゴール・タシー著天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」P217
「フィナーレ―バーレスク」は、チャイコフスキーをモデルにした、最も効果的で祝祭的で楽観的なものが中にあるとオイストラフは考えた。
~同P217
何という表現!!!他人からの依頼でなく、自身の内発的欲求により生み出されたショスタコーヴィチの作品は恐るべき高みに飛翔する。百戦錬磨の大ヴァイオリニストでさえ怖れをなしたということだ。
「プラハの春音楽祭」において、ムラヴィンスキーが珍しくチェコ・フィルハーモニーを振った記録が鮮明な音質で残されている、ダヴィッド・オイストラフの独奏。これほどに血が通い、鬼気迫り、そして祈りを伴う演奏が他にあろうか・・・。
エフゲニー・ムラヴィンスキー・イン・プラハ
・ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調作品77
ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1957.5Live)
・プロコフィエフ:交響曲第6番変ホ短調作品111
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1967.5.26Live)
冒頭楽章「夜想曲」の沈痛なヴァイオリンの響きにこそ「真実」が宿る。ショスタコーヴィチとオイストラフ、そしてムラヴィンスキーという三者が出逢ってこその奇蹟。第2楽章「スケルツォ」は「邪悪さ」が中和され、善なる愉悦の音楽として表現される・・・。作品の中心となる第3楽章「パッサカリア」における、冒頭のヴァイオリン独奏の滴るような音色に身も心も・・・。何と哀しく、何と美しく・・・。
初演から半年経っても3人の結束は緩まるどころか・・・。
いつ何時も緊張が途切れず、作品が作品として磨き上げられてゆく様子が見事に綴られる。
ムラヴィンスキーの日記。
1956年5月5日。リハーサル―オイストラフと、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を血の滲むような練り直し。5月6日。コンサート。
モーツァルト―交響曲変ロ長調
モーツァルト―ヴァイオリン協奏曲イ長調
ショスタコーヴィチ―ヴァイオリン協奏曲(D.オイストラフ)
(非常な成功。ショスタコーヴィチ列席)
~グレゴール・タシー著天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」P219
こんな演奏を聴かされたら他に何も要らない。忘我の極み・・・。
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