ヤノヴィッツ マティス シュライアー アダム カルロス・クライバー指揮シュターツカペレ・ドレスデン ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」(1973.1&2録音)

彼は迷い、条件をつけてきました。彼にとって、作品は十分魅力的だったのですが、最終的にそれを決定してしまいたくはなかったのです。それに、父親のケルンでの録音が、彼の悩みの種でもありました。わたしは、彼がことさらに口にしたがるこの不安を取り除こうと試みました。
(ドイツ・グラモフォン録音主任エレン・ヒックマン)
アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上」(音楽之友社)P354

カルロス・クライバー初のレコード録音にまつわる周囲の苦難。
やはり一筋縄では行かなかったようだ。
それでも彼を説得し、宥め、一切の要望を聴き、実現させることに成功した関係者のご苦労に感謝する。

カール・マリア・フォン・ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」。

コジマが語るリヒャルトのウェーバーにまつわる小咄。
幼少の体験が人間に与える影響の大きさを思う。
リヒャルト・ワーグナーの精神に通底するのは、ベートーヴェンであり、ウェーバーであったことがわかる。

みごとな晴天。午後、わたしたちは親しくしている近くの農家まで散策。リヒャルトは音楽について語った。初めは《魔弾の射手》、それから《田園交響曲》。「ここにはドイツ人の姿が見てとれる」と彼は言う。「フランス人が牧歌を語っても甘ったるくなるだけだ。ベートーヴェンも《田園》を書いたが、そこに自然をまるごと描いてみせた」。
(1872年4月14日日曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P186

大自然を語るのに「魔弾の射手」を例に取り上げるリヒャルトの慧眼(あるいは「魔弾」は別の話か?)。
ベートーヴェンの「田園」に比肩するのは「魔弾の射手」であるのかもしれない。リヒャルトはまた人間の道徳心の乱れを指摘し、次のようなことも語ったそうだ。

リヒャルトはこんな話をした。「この地に自分の学校を設立することができたら、《魔笛》や、《フィガロ》や、《魔弾の射手》について、それにグルックについても、その文化史的な意義について喜んでわたしの見解を話したい。《魔笛》と《魔弾の射手》は大衆劇場のものだった。それに対して《見捨てられたディドー》は宮廷劇場で上演された。—ああ、それにしても宗教の根本がこうも傷つき、精神と自然を対立概念として語るほど言葉づかいが乱れているこの国で、はたして文化など可能なのだろうか」。
(1872年6月29日土曜日)
~同上書P276

150年も前の、しかもドイツにおける話だが、人類の堕落は一層進んだように思う。
現代日本が抱える諸問題の根底にも、リヒャルトが危惧する原因がありそうだ。
(彼が宗教を超える芸術を立ち上げるべく「パルジファル」を創出したのにはそういった理由があったからだろう)

リヒャルトの思い出。5歳と書かれているが、歌劇「魔弾の射手」初演は1821年6月18日のことだから本人の記憶違いか、あるいはコジマの書き間違いか。それにしても幼い頃の体験が大いに役立ったというリヒャルトの言葉は重い。

ホテル・ベルヴューに投宿。列車の中でリヒャルトはフィディのことに触れながら、5歳で《魔弾の射手》を観たときの記憶について語り、茂みから現れるザミエルを真似てその主題を歌おうとしたことを話してくれた。こうした幼い頃の経験は害を及ぼすどころか、大いに役立ったという。
(1873年1月12日日曜日)
~同上書P499

彼はさらに言葉を継いで、こう述べた。「もしもウェーバーが〈酒の歌〉から最後まで通して音楽をつけていたら、どんなにすばらしいシーンが生まれていただろう。オペラに対話を、しかも語りによる叙唱風ではないディアローグを導入したことこそ、わたしの改革の眼目だ」。
~同上書P499

ウェーバーをスケープゴートにして結局自画自賛というのはワーグナーの常套の類だが、それにしても彼の人生の都度都度、「魔弾の射手」が顔を出すことに吃驚する。
ワーグナー芸術の源泉はベートーヴェンであり、またウェーバーであることをあらためて確認する。

リヒャルトや子供たちといっしょに遠出の散歩。ロールヴェンツェル亭に立ち寄る。そこでわたしの顔を見たリヒャルトは笑いが止まらず、「王子さま、魔法にかかった、かかった」と叫び続けた。若い頃にみんなで行ったハイキングを思い出したのだ。そのときの会話の様子、フリードリヒ大王やヨーゼフ2世、ナポレオンについて言い争いになったこと。不意に静かになり、《魔弾の射手》の序曲が演奏されたこと。こうした印象がいっしょくたになって、彼をとめどなく興奮させたのだという。ウサギが一羽、畑から飛び出し、リヒャルトは大声を上げた。「不思議だ、こうした動物たちがまだこんなに人間の近くにいるなんて」。
(1873年3月31日月曜日)
~同上書P591-592

カルロスの指揮する序曲の、躍動感溢れ、推進力満ちる神々しさ。これほどに切れ味鋭い美しい音楽を、父親の録音と比較して不安を感じていた指揮者が成したのかと思うと、本人の思考と力量とはまったく別物であることを思う。

・ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」作品77(1817-21)
ベルント・ヴァイクル(ボヘミアの領主オットカール、バリトン)
ジークフリート・フォーゲル(森林保護官クーノー、バス)
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(クーノーの娘アガーテ、ソプラノ)
エディット・マティス(アガーテの従姉妹エンヒェン、ソプラノ)
テオ・アダム(若い猟師カスパール、バス)
ペーター・シュライアー(若い猟師マックス、テノール)
フランツ・クラス(隠者、バス)
ギュンター・ライブ(富農キリアン、バリトン)
レナーテ・ホフ(第1の花嫁付添いの乙女、ソプラノ)
ブリギッテ・プフレッツェナー(第2の花嫁付添いの乙女、アルト)
レナーテ・クラーマー(第3の花嫁付添いの乙女、ソプラノ)
インゲボルク・シュプリンガー(第4の花嫁付添いの乙女、メゾソプラノ)
ライプツィヒ放送合唱団(ホルスト・ノイマン合唱指揮)
カルロス・クライバー指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1973.1.22-2.8録音)

「魔弾の射手」無限ループ。音楽のすべてのシーンが感動的。
完全主義者カルロスの真髄が至るところに刻印される。何だか聴き古した作品が蘇るような感覚。音楽も体験なのだとつくづく思う。

ぼくがあの録音に参加したのは、クライバーと仕事をするのが、刺激的だったからです。すばらしい偉大な経験でした。彼はぼくに何かを強いることはなく、ぼくの声が聞こえるよう、適切な音量で演奏してくれました。声というものをどう扱うべきか、彼は熟知していたのです。クライバーはぼくを鍛え、精神的にも参りましたが、彼との仕事によって得られた成果には、心から満足しています。彼には、すべてを投げ出すことも辞さないような強い個性がありました。けっして妥協の人ではなかったのです。自分が何を欲し、どのような熱意と意志でそれを叶えることができるのか、彼はその加減を正確に知っていたと思います。
(ペーター・シュライアー)
アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上」(音楽之友社)P359

手放しの賞賛数多の中で、シュライアーの言葉は実に冷静であり、しかもカルロスの天才を湛える意味で相応しい。

なお、この録音では台詞のパートは別の役者を使っている。

カルロス・クライバーの「魔弾の射手」を聴いて思ふ カルロス・クライバーの「魔弾の射手」を聴いて思ふ

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