ラインスドルフ指揮ロンドン響の楽劇「ワルキューレ」を聴いて思ふ

wagner_walkure_leinsdorfリヒャルト・ワーグナーの真意は、世界の征服ではなく、ベートーヴェンの「歓喜の歌」宜しく、世界を平和裡にひとつにすることであったのだろうと、ラインスドルフ指揮ロンドン交響楽団による「ワルキューレ」を聴いて思った。意外にも(?)音楽は明快かつ明朗で、第1幕の「ジークムントとジークリンデの愛の場面」など、陶酔的破滅的色香よりも開放的建設的色気に満ち、聴いていて真に心地良い。

「ニーベルンクの指環」の主人公であるジークフリートは双子の兄姉ジークムントとジークリンデの間に生まれた子どもだ。すなわち近親相姦を取り扱っているということで、初演時から道徳的非難が多方面から浴びせられたが、そういう事態を想定していたゆえかどうなのか彼らにまつわる人々をワーグナーは最後にひとり残らず抹殺した。渡辺護著「リヒャルト・ワーグナーの芸術」(音楽之友社)には次のようにある。

ジークフリートは兄と妹との結婚によって生まれたのであるから、彼の伯父の息子であり、彼の母の甥である。彼はまたヴォータンの娘であるブリュンヒルデの夫として、彼自身の甥でもある。そしてまた彼の母であり、また叔母でもあるジークリンデの姉婿にあたる。ブリュンヒルデはジークムントの妹(または姉)であり、かつまた嫁(息子の妻)でもある。ヴォータンはブリュンヒルデの父であり、また義理の祖父(夫の祖父)でもあり、ジークムントとジークリンデの義父でもあり、父でもある。このうちの誰かが死んだ場合、遺産相続はどういうことになるか。いかなる有能な法律家も、頭をかかえてしまうにちがいない。ワーグナーは知ってか知らずか、「神々のたそがれ」によって、すべてを死なせてしまったのである。
P423

なるほど、面白い。しかしこれは半ば冗談であるにせよ、ワーグナーが、真の平和をもたらすものは(すべてがひとつになるという意味において)、死こそがその鍵であると信じていたことは彼の著述からも明らかであり、「指環」の中で最終的に神々が亡びてゆくのも決して悲劇を描こうとしたのではなく、むしろそれこそが人類希求の最終結論だと言いたかったのだろうと僕は想像するのである。
ちなみに、ワーグナー自身が著した「ベートーベンへの巡禮」の前文は次のように始められ、次のように結ばれる。

私は神を信ずる。又モーツァルトとベートーベンを信ずる。同様に彼等の弟子達と使徒達を信ずる。私は精霊を信じ、ある分裂せしめ得ざる芸術の真理を信ずる。・・・私は此地上には未だ調和せざる和音がかつて存在しており、それが死を通して真にかがやかしく、又清らかに解決されるであろうことを信ずる。
ワーグナー著/蘆谷瑞世訳「ベートーヴェン~第九交響曲とドイツ音楽の精神」(北宋社)P160

これこそワーグナーが彼の創造した全作品の中で追究した真理だ。
中でも、「指環」において彼は、その主題の裏側に平和や調和への志向を描き出そうとした。
その源流がベートーヴェンの第9交響曲とミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)の精神であり、ここにおいてベートーヴェンとワーグナーは直結するのである。

偉大なミサ・ソレムニスに於て、我々は最も純粋なベートーベンの精神の純粋にシンフォニー的な作品を見る。ここに於ては歌声は、全く人間的楽器と言った様な意味に於て取扱われている。
~同上書P106

ベートーベンがその第九シンフォニーの経過に於てオーケストラを伴った純然たる合唱カンタータにもどってしまったと言う事実によって、我々は器楽から声楽へのあの特殊な飛躍を判断する際に、何等迷わされてはならない。此シンフォニーの合唱の部分の意義はさきに研究した通りで、シンフォニーをば音楽の最も本来の分野に属するものとして認めたのであった。
~同上書P123

・ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」
ジョン・ヴィッカーズ(ジークムント、テノール)
グレ・ブラウエンステイン(ジークリンデ、ソプラノ)
ジョージ・ロンドン(ヴォータン、バス・バリトン)
ビルギット・ニルソン(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
デイヴィッド・ウォード(フンディング、バス)
リタ・ゴール(フリッカ、メゾソプラノ)
マルグレータ・エルキンズ(ヴァルトラウテ、メゾソプラノ)
ジュディス・ピース(ヘルムヴィーゲ、ソプラノ)
ジュリア・マリヨン(オルトリンデ、ソプラノ)
マリー・コリアー(ゲルヒルデ、ソプラノ)
ジョーン・エドワーズ(シュヴェルトライテ、アルト)
ノリーン・ベリー(ジークルーネ、メゾソプラノ)
ジョゼフィン・ヴィージー(ロスヴァイゼ、アルト)
モーリーン・ガイ(グリムゲルデ、メゾソプラノ)
エーリヒ・ラインスドルフ指揮ロンドン交響楽団(1961.9録音)

第3幕のクライマックスである「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」は、クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィルに止めを刺すのだが(これ以上の録音は今もってないと僕は信じる)、ラインスドルフ盤での全盛期のニルソンとロンドンのやりとりは素晴らしく、父子の心理を音楽によって見事に表現したワーグナーの力量と、その音楽を完璧に再現したラインスドルフの手腕に舌を巻く。

ブリュンヒルデ
ひとつだけ、聞いて!
あなたの血をひく娘が恐れおののき、お願いするの!
人を嚇し、寄せつけぬようにして
眠れる私をまもってください。
恐れを知らぬ
不羈の英雄だけが
いつの日か、この岩山に
私を見出してくれるよう!
日本ワーグナー協会監修・三光長治/高辻知義/三宅幸夫/山崎太郎編訳「ヴァルキューレ」(白水社)P137-139

ブリュンヒルデの必死の嘆願に、血の通った父ヴォータンはついに心動かされる。哀しき愛がここに在る。

ヴォータン:
この目の悦びであった

愛しいお前を
失わねばならぬ。
ならば男を迎える祝儀に
どんな花嫁も包んだことのない
盛大な炎を燃やそう。
~同上書P139-141

「神々の黄昏」での「死をもってすべてが同化する」伏線としての「ワルキューレ」のドラマはあまりに人間的だ。
そして、その人間ドラマを熱く、有機的に響かせるエーリヒ・ラインスドルフの棒はある意味他を冠絶する。

 

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