人間というのは本当に弱い「生きもの」だ。
一度傷つけられると(あるいは傷つくと)、どうしても守りの体勢に入ってしまう。
もう少し勇気があったなら、状況は一変したのかもしれない。でも、残念ながら誰しも他人から受け容れられない恐怖を味わうと、足がすくんでしまうのだ。
人間とは何とエゴイスティックであることよ・・・。
それにしても、おそらくこの主人公のありのままの日常と姿を映し出したものであろうことがわかるリアルさで、とても良かった。
森達也監督の、佐村河内守を描いたドキュメンタリーは、人間世界の茶番を暴くかのような出来で、また、人間の深層にある真冬の景色を抉り出すような内容で、真に素晴らしい。
少なくとも、人間の作るものに絶対はない。
立ち位置が変われば見え方が変わり、角度が変われば感じ方も変わるのだ。
問題は、自分の目で確かめたこと、あるいは体感したことでなく、情報という名の虚像を鵜呑みにする僕たち人間の在り方だろう。
ところで、今年は、夏目漱石が没して100年の年である。
彼のデビュー作は、飼い猫の視点で世間のドタバタを描いた「吾輩は猫である」だが、この「FAKE」という名の映画にも、佐村河内氏の飼い猫がたびたび登場する。夫婦が苦悩の中にあっても、そしてまた世間がどんなに騒ごうと、我関せずとばかりにその愛猫は、ただそこにいるのである。人間の悩みの根源は、嘘であったり、誰かを貶めようという作為であったりだが、欲というものがいかに人間の生き方を狂わせるものであるか。
現代は何事においても誤魔化せない時代。
即座に僕は苦沙弥先生の家に出入りする名前のない猫を思った(そのことはチラシも物語る)。
ドキュメンタリーby森達也「FAKE」
出演:佐村河内守
監督・撮影:森達也
プロデューサー:橋本佳子
撮影:川崎裕
編集:鈴尾啓太
制作:ドキュメタリージャパン
製作:「Fake」製作委員会
配給:東風
この映画は、たくさんの人に観て、感じ、そして考えていただきたい。
たぶん、それぞれがそれぞれに、それぞれの感想を持つだろう。
その感想はどれも正しいと思う。
何だか僕は、正義という言葉の曖昧さを思った。
何が正しいのか?すべてが正しいのである。
何が間違っているのか?そういう意味では、すべてが間違っているのだ。
人間の社会などというのはそんなもの。
それより僕は、佐村河内夫妻の絆の深さに感動した。おそらく先年の事件で一層それは堅固なものになったのかも。
雨降って地固まる。
どんな出来事も当人にとっては贈り物。起こることに無駄はない。
こう暑くては猫と雖遣り切れない。皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと英吉利のシドニー・スミスとか云う人が苦しがったと云う話があるが、たとい骨だけにならなくとも好いから、責めてこの淡灰色の斑入りの毛衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分の中質にでも入れたいような気がする。人間から見たら猫などは年が年中同じ顔をして、春夏秋冬一枚看板で押し通す、至って単純な無事な銭のかからない生涯を送って居るように思われるかも知れないが、いくら猫だって相応に暑さ寒さの感じはある。たまには行水の一度くらいあびたくない事もないが、何しろこの毛衣の上から湯を使った日には乾かすのが容易な事でないから汗臭いのを我慢してこの年になる迄銭湯の暖簾を潜った事はない。折々は団扇でも使って見ようと云う気も起らんではないが、とにかく握ることが出来ないのだから仕方がない。それを思うと人間は贅沢なものだ。
~夏目漱石作「吾輩は猫である」(講談社文庫)P193
人間というのは何につけても贅沢なのものだ。
それにしても、平日の夕刻というのにユーロスペースは満席。終わったかのようにみえるあの問題に意外に多くの人が関心を持っているのだと知った。
その意味でも、すべてはマスコミが作った虚像だ。
ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。
真実はあらゆる可能性が確率的に満遍なく存在していて、それを言葉で表現したとたんに、あるひとつの解釈に収縮してしまうのではないでしょうか?
>雅之様
おっしゃる通りですね。
その意味で、森監督が最後にした質問に対して佐村河内の回答を(明確なそれがあったのかどうかわかりませんが)収めなかった点は秀逸だと思います。
[…] 信ずることこそ命なのである。 光を拒絶する佐村河内守にすべてが闇の中にあることを思った。 […]