ラトルのメシアン「彼方の閃光」を聴いて思ふ

messiaen_eclairs_sur_lau_dela_rattle_bpoオリヴィエ・メシアンの「彼方の閃光」を聴いてドストエフスキーを想った。いや、ドストエフスキーの「死の家の記録」を読み、メシアンを想ったのか・・・、そのあたりは曖昧なのだけれど。

小説というよりほとんど自身の体験を基にしたノンフィクションの態だが、「死の家の記録」(工藤精一郎訳)は真に生々しい。数多の囚人のことが細かく描写され、そして「わたし(アレクサンドル・ペトローヴィチ)」の身辺で起こった様々なことがリアルに描かれる。もちろん19世紀中葉という時代もあり、あるいはシベリアという地の果てでの出来事だということもあるが、想像を絶する厳しさ。と同時に、僕はそういった非日常の中に、おそらくドストエフスキーの内にもあったであろう自然讃歌や信仰というものを発見する。いや、むしろ大罪を犯した者たちの内側にこそそういうものが存在することを知り、やはり人間の根源というのは「善」であり、また「愛」なのではないかとも考えた次第。

暴虐は習慣である。それは成長する性質をもち、しまいには、病気にまで成長する。わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴虐になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる。粗暴と堕落は成長する。知と情は、ついには、甘美のもっとも異常な現象をも受容れるようになる。暴虐者の内部の個人と社会人は永久に亡び去り、人間の尊厳への復帰と、懺悔による贖罪と復活は、ほとんど不可能となる。加えて、このような暴虐の例と、それが可能だという考えは、社会全体にも伝染的な作用をする。
P366

暴虐は習慣だとよくいったものだ。しかも鈍化によるものだと。そして血と権力によってそこに導かれるのだと。ならば人間の本質はやはり「良心」なんだ。

部屋の中央にきれいな白布をかけた小さな机がおかれて、その上に聖像が安置され、燈明がともされていた。ようやく、神父が十字架と聖水を持ってはいってきた。神父は聖像のまえに歩みよって十字を切り、祈りを唱えおわると、囚人たちのほうに向きなおった。囚人たちはうやうやしくそのまえに近づいて、十字架に接吻しはじめた。
P255

暖炉の上では老人がすべての「正教徒たち」のために祈っている。規則正しい、しずかな、うたうような「主イエス・キリストよ、われらをあわれみたまえ!・・・」という祈りが聞こえてくる。
「永久にここにいるわけじゃない、わずか数年のことじゃないか!」こう思いながら、わたしはまた頭を枕へおとした。
P308

獄中の、人々の信心深いシーンをドストエフスキーがあえて挿入するのは、習慣による鈍化から生じる「悪」も幻想なんだと信じたかったのでは?真実はひとつだと。ともかく祈ることだと。

メシアン:彼方の閃光
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

「ヨハネの黙示録」の展開を追い、その上に作曲者らしい宇宙、自然、精神というものに直結する音楽を重ね合わせることで、メシアン最後の大曲は構成される(全11楽章)。コラール風の第1曲「栄光あるキリストの出現」の何という意味深い重さ!(僕はすぐさまセロニアス・モンクの”Abide with Me”を想起した。19世紀の聖歌をモチーフにしたこの短い曲は実にシンプルで美しい)。第2曲「射手座」の、弦の伴奏による木管ソロの可憐な美しさはベルリン・フィルならでは。第3曲「コトドリと結婚の街」での舞踏が第4曲「封印された選ばれし者」に連なり、音楽は細かい動きを見せ高潮するが、第5曲「愛にとどまる」によって一気にクールダウン。何という静けさ、何という深遠さ・・・。そして、第6曲「7つのトランペットと7人の天使」のおどろおどろしさによって最初のクライマックスを迎えるのだ。

私は自分が真っ暗闇の中、カーテンの前で不安におののいているところを想像していました。カーテンの向こうに何があるのだろう、復活、永遠、新しい命・・・一体これから何が起こるのだろう。「彼方の閃光」の演奏でも、そんな気持ちになることがあります。「閃光」とはもちろん復活した者たちの光となるキリストのことです。よみがえった者たちは、キリストの光を受けて輝くのです。
~1992年1月のオリヴィエ・メシアン最後のインタビュー(ライナーノーツより抜粋)

 


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