パルジファルは祭壇の階を上り、侍童が開けた厨子からグラールを取り出す。そして跪き、黙祷を捧げ乍らグラールを見つめる—グラールは徐々にやわらかな光を放ちはじめる—舞台上にますます深い闇がたちこめるなか、天上から射し込む光は、その輝きを増してゆく。
~日本ワーグナー協会監修/三宅幸夫・池上純一編訳「パルジファル」(白水社)P105
「パルジファル」終幕、最後の場面のト書きである。
三宅幸夫さんの解釈に膝を打つ。
聖杯の放つ光は「闇」の存在によっていやますというわけである。もとよりアムフォルタスの悲劇は、闇の存在たるクリングゾルを消し去ろうとしたことから始まった。そしてクリングゾルの悲劇も、みずからに巣くう闇の存在(情欲)を消し去ろうとしたことから始まった。この〈聖杯の動機〉に重ね合わされた水平方向の増三和音は、異議なしの大団円に導かれる前にワーグナーが放った最後の警告「闇あってこその光」として受け止めるべきではなかろうか。
三宅幸夫 解題(音楽)「謎に満ちた関係ばかり」
~同上書P113
19世紀末にあって、いまだ「火の時代」たる混迷の時代を抜けるのに、西洋二元論を突破する意義をワーグナーは無意識に悟っていたのだろうと想像する。本来、光も闇もなく、すべてが一体であることを知らねばならない。そして、何か(例えば都合の悪いこと)を排除しようとする思考自体を人間は改めねばならない。
いかにもクーベリックらしい温和な、そして明朗な「パルジファル」全曲にしばらく身を委ねていた。何と心地良い音楽であることか。何と素晴らしい物語であることか。
何より第1幕の前奏曲の美しさ、同時に意味深さを思う。
1980年当時のワーグナー歌手たちが勢揃いしての「パルジファル」に心が動く。
盛時のクーベリックの棒の無駄のなさ、ワーグナー渾身の神聖劇がこれほど自然体で、しかも意味深く響くのは巨匠の脱力的指揮の成せる業なのだろうと想像する。
個人的にはキングのパルジファルはもちろんのこと、ミントンのクンドリーに惹かれる。
例えば第2幕のクンドリーの口づけのシーン!
罪の告白は
悔いを残すだけ
ひとたび目覚めれば
愚かさも知に転じる。
さあ、愛を知るのよ
ガムレットを抱きしめた愛を。
ヘルツェライデの燃え立つ思いが勇者を焼き尽くし
情熱の奔流に浸した、あのときの愛を。
かつてあなたに体と命を
与えてくれた愛。
死にも、愚かさにも打ち克つ愛。
その身に幸あれと祈る
母の最後の挨拶—
その愛の
最初の口づけを—さあ受けて!
~同上書P71
パルジファルを悟りに導くクンドリーの魔法に、そしてその際のワーグナーの付した音楽に、さらにはそれを再現するクーベリックの指揮に、見事な三位一体を思う。
パルジファルは、「アムフォルタス!」と叫ぶのだ。(それにまた、何とルチア・ポップが花の乙女を歌うのだ)
そして、第3幕「聖金曜日の奇跡」から最後のシーンまではこのムジークドラマの最高の聴きどころ。ゆったりと音楽に浸るべし。