エクトル・ベルリオーズの「音楽のグロテスク」という音楽批評をまとめた書籍があるが、実に面白くない。文章そのものがこの稀代の作曲家のあまりに個人的な思考であること、そして当時の社会的背景を知らない身にとっては理解し難い表現が延々と続くことが足を引っ張る。日本語訳も決してわかりやすいとは言えないのだが、訳出の問題ではないように思う。
ともかく言い回しが回りくどく、比喩が多いのだ。この無駄の多さはある意味マーラーの思考に通じるもので、誇大妄想癖という意味ではこの二人は二大巨頭かも。
とはいえ、こと音楽となるとベルリオーズはマーラーの1枚も2枚も上手。自由でありながら形式的逸脱は最小限に抑えられ、支離滅裂という印象が俄然少なくなる。
例えば、「イタリアのハロルド」(180周年!)は心底美しい(相変わらずのベルリオーズ節炸裂で、第1楽章後半などは「幻想交響曲」を聴いているのかと錯覚を起こすほど)。第1楽章のハープの分散和音を伴奏にしてのヴィオラの独奏による「ハロルドの主題」などチャーミングの極み。第2楽章の祈りの旋律はどこか滑稽さを帯びる(これがまた彼の彼たる所以)。さらに第3楽章の舞踏はあまりに平和だ。また終楽章における決然とした響きにも作曲者の「自信」が投影される。
ベルリオーズ:
・交響曲「イタリアのハロルド」作品16
・歌曲集「夏の夜」作品7
・テューレの王のバラード~「ファウストの劫罰」作品24
アントワーヌ・タムスティ(ヴィオラ)
アンネ=ゾフィー・フォン・オッター(メゾソプラノ)
マルク・ミンコフスキ指揮レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル=グルノーブル(2011.4録音)
ゴーティエの「死の喜劇」からの詩をテクストにした「夏の夜」を聴いて思った。なるほどマーラーはベルリオーズの歌曲を軸にし、そしてベルリオーズの方法を手本にして音楽を試みたのではないのかと(ベルリオーズは1840年から41年にかけてピアノ伴奏版を作曲し、その後1843年及び1855年から56年にかけて管弦楽版にアレンジしている事実にも注目)。
しかし、この表面上の底抜けの明るさはマーラーにないもの。第1曲「ヴィラネル」におけるオッターの翔るような歌唱がまた見事で、思わず繰り返し聴いてしまう。第2曲「ばらの精」のアンニュイさも格別。手折られたばらの精が語る。ここでのオッターの優しさよ。
閉じた瞼を開けて、夢から目覚めなさい。私はばらの精なのです。
第3曲「入江のほとり―哀歌」の息詰まる慟哭「美しいあの人は死んだ」という一節が涙を誘う。さらに第4曲「君なくて」では去った恋人を恋い焦がれオッターが心から絶唱するのだ。
タイトル通り、この歌曲集は今頃の時期に相応しい。
ここには詩人としてのベルリオーズが在る。おそらく自身が心から共感した詩を選んだのであろう。じめじめした内容にもかかわらず音楽そのものは実に清澄で清々しい。
こういう矛盾こそがベルリオーズの魔法なんだと僕は思う。
人気ブログランキングに参加しています。クリックのご協力よろしくお願いします。