カラヤンのチャイコフスキー&ドヴォルザーク「弦楽セレナード」を聴いて思ふ

tchaikovsky_dvorak_serenade_for_strings_karajan肩が凝った。スキューバ・ダイビングをやってみて、僕がいかに日常で「緊張状態」にあるかがよくわかった。脱力することが下手だということ。そうなると睡眠も慢性的に浅くなるわけだ。なるほど。
音楽はそもそも心身のリラックスが目的なのだけれど、結局僕は左脳的に音楽を理解するために聴いているだけなんだということも見えた。貴重な一日。

チャイコフスキーの「弦楽合奏のためのセレナード」を聴く。
この人は間違いなく天才。楽章ごとに調性を五度圏の時計回りに進めてゆくことで聴く者の緊張を和らげる。そして、弦楽器のみによる演奏が癒しを呼ぶ。
そもそも作曲の背景にはモーツァルトへの畏怖と尊敬がある。後年の「モーツァルティアーナ」という作品を挙げるまでもなくチャイコフスキーが「神の子」を追随し、ある意味自身もその素養を受け継ぎ、現代に至るまで愛好される傑作を残し続けたということだ。

・チャイコフスキー:弦楽セレナードハ長調作品48
・ドヴォルザーク:弦楽セレナードホ長調作品22(B52)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

内面的衝動によって作曲され、真の芸術的価値を失わないものと感じている。
1880年10月10日付、フォン・メック夫人宛手紙より
「作曲家別名曲解説ライブラリー チャイコフスキー」P130

誰からの依頼でもなく自らのパッションを源泉に生み出された作品は高貴でありながらコマーシャル。カラヤンの丁寧、というか無機的な響きが逆に今の僕の状態を解放する。
第1楽章「ソナティナ形式の小品」は、小品というのは名ばかりで実に巨大だ。アンダンテ・ノン・トロッポの有名な序奏は大らか。主部アレグロ・モデラートに入ってもテンポは理想的で、重厚で濃密な音楽が奏でられる(とはいえ音調はやっぱり無機的)。
そして、これまたメジャーな第2楽章「ワルツ」。真にチャイコフスキーならではの舞曲。これほど優美でロシア的憂愁を帯びる歌謡的な音楽はない。
第3楽章「エレジー」は、主部の美しさもさることながら、中間部のピツィカートを伴奏にした調べに一抹の安堵を覚える。フィナーレに行き着く頃には眠りにつきそうな・・・。アンダンテにおけるカラヤンの弱音強調に弛緩を後押しされ、アレグロ・コン・スピリートにおける決然とした音楽に勇気をいただく。
ようやく落ち着いてきたようだ・・・。

続いてドヴォルザーク。
何という哀しみ。てっきり僕はチャイコフスキーをお手本にしたのだと思っていたが、実際はこちらの方が5年も先というのが驚き。第2楽章「テンポ・ディ・ヴァルス」もチャイコフスキーの「ワルツ」とは趣をどこか異にし、むしろショパン的。あくまで「聴かせる」円舞曲ということだ。音楽が進行するにつれ一層哀感が深化する。ボヘミアは精神的にはロシアよりポーランドに近いのかも。ひとときの休息である第3楽章スケルツォを経て、第4楽章ラルゲットは、メロディ・メイカー、ドヴォルザークの真骨頂!まるで愛撫のようなカラヤンの指揮の粋。
冒頭の旋律がブルックナーの第8交響曲フィナーレのコサック隊主題と似る終曲アレグロ・ヴィヴァーチェに至って、その颯爽たる勢いにやっぱり勇気をいただく。


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む