ゲルギエフ&キーロフ劇場管のショスタコーヴィチ第9交響曲を聴いて思ふ

shostakovich_5_9_gergievSACDフォーマットの威力にあらためて感心した。
音が柔らかく立ち、臨場感に富み、各々の楽器の音の密度の高さと生々しさに卒倒した。ワレリー・ゲルギエフ&マリインスキー劇場管弦楽団のショスタコーヴィチ再録盤(交響曲第4番~第6番)は「音のリアル感」という点で12年前の実況録音盤をはるかに凌ぐ。現時点で聴いたのは第5番ニ短調作品47のみなのでもう少し腰を据えてじっくり聴き込んだ上で思うところを書いてみたい。

今日のところは旧録音盤で第5番とカップリングされていた第9番変ホ長調作品70を。
戦争の勝利を祝して生み出されたもので、ソ連当局は勇壮で巨大な作品を期待していたものの実に小型の、どちらかというとショスタコ流アイロニーに溢れた喜遊曲的作品だったゆえ、後に文化相ジダーノフから「西欧追随の形式主義」の烙印を貼られ、作曲者自身が身の危険に晒される羽目に遭うことになった経緯を持つ。

共産党幹部は期待していたのだ。それはそうだ。「戦争交響曲」と呼ばれる劇的な作品群の掉尾を成す作品になるはずだったのだから。実際、戦争終結間際にショスタコーヴィチ自身が当局の意向に沿う「新しい交響曲を書き始めている」ことを公にしており、そのスケッチを聴いたことがあるという音楽家が何人かいるらしい(もともとはまったく別の音楽がスケッチされていたそう。そしてそれは作曲者本人によって破棄された)。

大祖国戦争が終焉に向かいつつある今、その歴史的意味がよりはっきりしてきました。これは無知、反啓蒙主義に対する教養、啓蒙主義の戦争であり、殺人者の残忍な道徳律に対する、真実と人道主義の戦いであります・・・我が国の創造芸術の未来に思いを馳せながら、私は今何を夢見ているのでしょうか?
ソビエト芸術家なら、誰でも同じ思いに違いありませんが、今日我々を支配している強烈な感情が表出するような、壮大な作品を書こうと夢見て、震えるような喜びを感じています。これから何年かで生まれるすべての作品の題詞は、「勝利」という一言に尽きるでしょう。
1944年11月7日、革命27周年記念式典でのショスタコーヴィチによる宣誓
ローレル・E・ファーイ著 藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチ ある生涯」P193

いかに社交辞令的とはいえ本人が直接こう述べているのである。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第5番ニ短調作品47(2002.6.30Live)
・交響曲第9番変ホ長調作品70(2002.5.18Live)
ワレリー・ゲルギエフ指揮キーロフ劇場管弦楽団

しかしながら、アイロニーに満ちた喜遊曲的作品に聴こえるのは第1楽章アレグロだけのように僕には思える。第2楽章の木管による静かな旋律は幽玄の極みであり、楽章全体を通じてどこか戦没者を悼むような音調に支配される。ここでのゲルギエフの「念」は凄まじい。続く第3楽章プレストこそ勝利の歌だ。決して雄渾とはいえないが、金管で奏される主題などこれほど嬉々とした讃歌はない。そして、アタッカで続く第4楽章冒頭のコラールが戦争で死した多くの者が静かに讃えられる。
さらには、フィナーレこそ冒頭がいかにも軽い様相だが、全体を通じて勝利を祝う強い「意思」が感じられるのである。
ゲルギエフの素晴らしいところは、自身の心情を簡単に作品に投影できる術を持っているところ。第9交響曲にも隅々まで指揮者の意思が行き渡る。

人間というのは面白い生き物だ。誰の内側にも「ナショナリズム」というものがあるようで、祖国の勝利には嬉々とし、逆に敗北には意気消沈する。ちょうどW杯ということもあり、国民総出で有無を言わせず応援するような雰囲気に、あくまで表上だが僕もショスタコーヴィチ流皮肉で攻めたくなる。人間の本性とはそういうものなのである。第9交響曲は間違いなくショスタコ流「勝利の音楽」だ。


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