ブーレーズのマーラー歌曲集を聴いて思ふ

mahler_boulezひとたび刷り込まれた人間の思考パターンや感覚というのはなかなか変わるものではない。いや、基本的に変わらないものだと言っても良いのかも。それこそが良くも悪くも「個性」。
グスタフ・マーラーの音楽はどこをどう切り取っても彼の音楽だ。初期のものも壮年期のものも、そして晩年のものも筆遣いはもちろん円熟していくのだけれど、根底の音調は決して変わることがない。

台風一過の夏日にマーラー歌曲集。
ピエール・ブーレーズの「リュッケルト歌曲集」と「亡き子をしのぶ歌」を聴いて思った。これらの作品は交響曲第5番との共通性が論じられるが、ほぼ同時期に生み出されたものであるゆえそれも当然。一聴、明らかにマーラー的イディオムに溢れ、静寂の内に滔々と流れる旋律に心洗われる。ブーレーズの棒によって複雑で巨大な音の塊が至極透明感を獲得し、その上にオッターらの魅惑的な声が重なり、当時のマーラーの「内なる想い」を綴った見事な音楽として再創造される。決して冷徹でなく何とも直截的で温かく優しい音色で・・・。

特に交響曲作曲家としてのマーラーに顕著だと思うのは、自身が指揮者であり、かつ性格的に完璧主義だったことが災いしているのか、スコアの指示はあまりに細かく固められており、解釈の可能性が狭まる結果、彼自身の分裂気質的なものまでもが音楽にはっきりと刻印され、聴いていてとにかく辛くなる瞬間が多々あるということ。
先日来、デリック・クック補完による交響曲第10番を集中的に聴き、この作品には幸か不幸かマーラー自身の具体的指示が少ない分、逆にマーラー的なのだが純然たるマーラーではない、結果として中庸の(悪くいえば中途半端な)音楽しか感じさせない音楽になっていることに僕は思わず膝を打つ。彼はもう少し自分自身を解放すべきだった。つまり、「こだわり」を捨てるべきだったと(もちろんそうなるとそれこそ「没個性」になって「マーラー的」ではなくなるという矛盾もあるのだけれど)。

そこへいくと歌曲集は俄然とっつきやすい。決して冗長にならず、とにかく支離滅裂さが退行し、詩と一体化した恋の喜びと生きることの哀しみを帯びた音楽の美しさだけが表出する。マーラーの本領は歌曲にあるとあらためて思う。

マーラー:
・さすらう若人の歌
・リュッケルトの詩による5つの歌曲
・亡き子をしのぶ歌
トーマス・クヴァストフ(バス・バリトン)
ヴィオレータ・ウルマーナ(ソプラノ)
アンネ=ゾフィー・フォン・オッター(メゾソプラノ)
ピエール・ブーレーズ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(2003.6録音)

「リュッケルト歌曲集」と「亡き子をしのぶ歌」はマーラーの正負両面だろうか・・・。彼の内側に在る陽の性質と陰の性質とがそれぞれに見事に映し出された傑作たち。
一瞬の弛緩もない、悠然たる音楽の流れに身を任せるだけで身も心も陶然となる。

オッターの歌う「亡き子をしのぶ歌」第4曲「子どもたちはちょっと出かけただけだ、とよく私は考える」の心情吐露に耳を瞠る。

しばしば、私は考える、子供らはただ散歩に出かけただけだと!
まもなく、家に戻って来ることになるだろう!
今日はうるわしい日だ! おお、何も心配するに及ばないのだ!
子供らはただ遠足に行っているにすぎないのだから

そして第5曲「この嵐の中で」の何という慟哭。

こんな嵐のような天候の中で
私は決して子供たちを外に出したりはしない。
誰かが子供らを戸外へつれて行った。
私はそれに対して口出すことさえ許されなかった。

あるいは、ウルマーナによる「リュッケルト歌曲集」から、わずか3分に満たない第5曲「美しさゆえに愛するのなら」の至高美!なるほど、マーラーが交響曲をシベリウスのようにもっとシンプルに突き詰めていたら・・・、音楽の歴史は随分変わったかも。

※太字歌詞対訳はWikipediaより引用。

 

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