アバド&シカゴ響のマーラー第7交響曲を聴いて空想する

mahler_7_abbado_cso_1984クラウディオ・アバドのマーラーから受けた啓示。交響曲第7番に関する空想。
フィナーレは失敗作だ、全体のバランスがいまひとつなどなど、様々取り沙汰されるグスタフ・マーラーの「傑作」。要は晦渋なだけなのだ。
鍵は、「影のように(Schattenhaft)」と指示されるスケルツォ楽章にある。

ウィーン宮廷歌劇場総監督の任にあったマーラーは、当時古今の数多の作品を上演し、成功に導く一方、少なくともウィーンにおいて自作演奏が無条件に受け容れられたことがほとんどなかった。それは作品が彼自身の「いずれ時代が私に追いつくだろう」という言葉通り、当時の聴衆にとって非常にわかりにくい、とっつき難い様相を示していたことによるだろう。
特に晩年、ワーグナーの「再生論」の影響から徹底した菜食主義者になったともいわれるマーラーの思想の根底には、やはり「女性の愛による救済」やフリーメイスン的「友愛思想」があったのかどうなのか。それはわからないけれど、当然作品のアイデンティティやイデオロギーには無意識であれ「思考」が浸透していることは間違いなかろう。

少し話を飛躍、全体俯瞰してみる。
ワーグナー芸術の最大の源のひとつは間違いなくベートーヴェンだ。中でも第9交響曲。そして、第9交響曲の思想的ルーツは「フィデリオ」、否、「レオノーレ」にあると考える僕は、さらに時代を遡り、ベートーヴェンに「レオノーレ」創造に影響を及ぼしたのは何か、それは他でもないモーツァルトの「魔笛」であろうと想像した。ここに思い至って、次のイマジネーションが生れたのである。
そう、マーラーの交響曲第7番の下敷きとなるのは「魔笛」だったのではないかと!!

「魔笛」には全編にわたり「智慧」が横溢する。ストーリーそのものは人類への「個々の分離を解き、ひとつに融和せよ」という警告である。この物語の主人公は日本の狩衣を着けるタミーノであるが、キーパーソンはザラストロと夜の女王。この2人がタミーノの力により融和する、これこそが「魔笛」の主題なのである。

話を元に戻そう。
「影」とはすなわち「幻」である。この世は「幻想」だとベートーヴェンはおそらく見破っていた。そのことはおそらくワーグナーも・・・。ならばマーラーの思考がそれを受け継いだ可能性は十分にある。
そして、第2楽章(ハ長調)と第4楽章(ヘ長調)は「夜の歌」と名づけられ、第1楽章(ロ短調)と第5楽章(ハ長調)は主題的に互いに連関するも音調は正反対で。そう、「幻想」であるスケルツォ楽章の前後は「夜の女王」を表し、両端楽章は「ザラストロ」の役目を担うのである。
さらに、前半2楽章は、まるで「魔笛」第1幕における「夜の女王のザラストロ退治」の様相であり、後半2楽章はザラストロの神々しい光を暗示する。つまり、第3楽章を軸に前半と後半が180度展開する、まさに「魔笛」と相似形だということだ。

マーラー:交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
クラウディオ・アバド指揮シカゴ交響楽団(1984.1&2録音)

ちょうど30年前のレコーディング。シカゴ交響楽団の金管群の抜群の巧さが光る。
さて、第3楽章スケルツォ。いつものマーラー同様、このおどけた調子のダンスは、まるで黄泉の国の精霊たちの輪舞のようではないか。そして、マンドリンとギターという小さな楽器が活躍する第4楽章アンダンテ・アモローソにおいては金管や打楽器は用いられない。実に第5交響曲のアダージェットと連関する「愛」のメッセージであり、これによって主人公は「開かれる」のである(タミーノがザラストロの提示する試練によって開花したように)。
極めつけはロンド・フィナーレの歓喜!!とってつけたようなこの異様な光景こそ精神の大爆発を示す。これ以前の楽章においてアバドは幾分かの抑制を効かせていたが、冒頭の華麗なファンファーレに祝福され、ここで一気に自らが主人公になるのだ。

以上、夢の中での話。すべてに何の根拠もなし。少々度が過ぎた妄想だけれどお許しを。
これにて第7交響曲の素晴らしさをあらためて知る。クラウディオ・アバド万歳!!

 


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