リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管のバッハ「ヨハネ受難曲」(1964.2録音)を聴いて思ふ

バッハの音楽は何をしても圧し潰されることのない堅牢な岩塊のようだ。
誰がどのように解釈しようとその精神はまったく揺るがない。
ニーチェが言うように、またワーグナーが同意するように、崇高なドイツ音楽はバッハからベートーヴェンに、そしてベートーヴェンからワーグナーに引き継がれ、進化、深化していったのだろう。外に拡散する大宇宙と内に収斂する小宇宙の拮抗、というより共鳴。

カール・リヒターの「ヨハネ受難曲」。
イエス・キリストの最期のシーンを切々と歌う第2部第58番アルト・アリア「こと果たされぬ」のあまりの美しさ(3年前に聴いたミシェル・コルボ指揮ローザンヌ声楽・器楽アンサンブルの演奏は実に素晴らしかった)。

こと果たされぬ!
病いに冒されし魂の慰めよ、
悲しみ迫り来る夜は
われに最期の時刻を数えしむれば。
ユダより出でたる勇士、威勢をもて勝ち、
かくて戦いを終らせたもう。
こと果たされぬ!
(杉山好訳)

峻厳さと同時に、彼の指揮するバッハにはフルトヴェングラー同様の、底知れぬ緊張と感動を強いる一期一会のドラマがある。
もう37年も前のこと。急逝したカール・リヒターの追悼特集が「レコード芸術」誌に掲載された。中で、皆川達夫さんの、来日を直前に控えての死に無念の滲み出る記事が心に迫る。

彼は、作品の解釈をあらかじめ計算するというようなことは、一切しないという。練習は基本的なことにとどめておいて、さて本番のステージにのぼり指揮台に立って、棒をふっているその時に、瞬間瞬間にひらめくインスピレーションによって音楽をつくりあげてゆくという。
具体的に彼自身の言葉を引用してみよう。
〈私が音楽を作る時は、その瞬間瞬間のインスピレーションによって決定してゆきます。舞台の裏で、さてこれからどうやって演奏してやろうなどという計算とか意識は、全くありません。その瞬間瞬間に応じて、インスピレーションがわいてまいります〉
(皆川達夫「リヒターの死を惜しむ」)
~「レコード芸術」1981年4月号(音楽之友社)P135

音楽に、バッハに身も心も捧げたリヒターの、決して悔いはないであろう人生の、まるで総括のような各々録音は、どれもが異様な緊張感を伴う傑作。

・J.S.バッハ:ヨハネ受難曲BWV245
エルンスト・ヘフリガー(福音史家、下役、アリア、テノール)
ヘルマン・プライ(イエス、バリトン)
イヴリン・リアー(下女、アリア、ソプラノ)
ヘルタ・テッパー(アリア、アルト)
キート・エンゲン(ペテロ、ピラト、アリア、バス)
カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ合唱団&管弦楽団(1964.2録音)

第65曲コラールの、この世のものとは思えぬ宇宙的鳴動。

きびしき汝の受難のゆえに、
われら常に汝に服しまつりて
すべての悪をば避け、
汝の死とそのゆえんとを
実りもて思いみ、
恵みと真実に応えまつりて、よし弱く貧しくとも
汝に感謝のいけにえを捧げしめたまえ。
(杉山好訳)

そして、すべての魂を癒すほどの力を秘める第67曲合唱「憩え、安らけく」の悲しき安寧。この合唱においては、リヒターの右に出る者はいないだろう。続く第68曲(終曲)コラールの静かな慟哭は、聴く者の魂を揺るがし、涙を呼ぶ。

しかし、彼の演奏が頂点を極めた頃の、音楽の核心を掴んで放さぬ全霊を注いだ集中力、そしてカザルスやフルトヴェングラーに通じる単に音楽的というより、全人格的体験を思わせるような深い感銘を、新しい世代の誰が可能にするのだろうか—。
古楽器の復興と並行して、バロック音楽が、肩をいからせるものではなく、よりリラックスした態度で受けとめられるようになった今日、そんな演奏などもう成立しないかもしれない。
リヒターは語る。
「確かに私は、シュトラウベとラミンに多くを負っています。私を支えるのは彼らから引き継いだ伝統であり、私には彼らに多くを負っているという責任があります。
フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、ブルーノ・ワルターといった偉大な指揮者の音楽の中にこそ、私は“伝統”というものの真の意味を発見しています。
(岩原正夫「バッハ演奏の一つの時代は終わった」)
~同上誌P139

同じく同誌に掲載された、岩原正夫さんの追悼文の締めの言葉は、37年後の今日の状況を確かに言い当てる。カール・リヒターのようなバッハは今や誰にもできまい。

 

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