フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの「エロイカ」(1950.6.20Live)を聴いて思ふ

beethoven_eroica_furtwangler_19500620039フルトヴェングラーの「エロイカ」は幾種もあるが、そのどれを聴いても間違いなくフルトヴェングラーの音がするのに驚かされる。オーケストラの違い、録音年月の相違を超えて普遍的に響くものが確実にあるのである。
第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭の2つの和音からそもそも気迫が違う。全身全霊を込めての壮絶なドラマの開始を告げる最初の重厚で激烈な(アインザッツのずれた)トゥッティは、それだけでひとつの「音楽」を形成する。

大病前の、そして難聴を患う前の巨匠の渾身のパフォーマンスが記録された1950年の「エロイカ」は、知る人ぞ知る超絶名演奏だ。ここには、テンポの揺れが少ないながら、いかにもフルトヴェングラーという若々しさと、晩年に顕著になる老練の極みともいうべき静謐さが相対する。

嵐の神、また雷神とも称せられるこの人は、同時に、かつて音をとおして語られたもっとも深奥にして幸福な静寂、底知れぬ敬虔、きわめて無垢にして歓喜にみちた調和の創造者でもある。荒れ狂う嵐、すさまじい激情のさなかにも、なんという毅然たる静寂と明晰さ、究極的な支配と形成を求めての、いかに仮借なき意志がうかがえることか!
マルティーン・ヒュルリマン編/芦津丈生・仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーを語る」(白水社)P122

ベートーヴェンに関するフルトヴェングラーの言である。楽聖の性格を見事に言い当て、彼の芸術に対してこれほど的を射た表現はほかにない。そして、この言葉がそのまま件の「エロイカ」交響曲に当てはまるのである。

・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
・ヒンデミット:管弦楽のための協奏曲作品38
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1950.6.20Live)

録音のせいもあるのか、この独フルトヴェングラー協会盤は音の芯が見事に太く、しかも全般的に音質が良好なのが素晴らしい。堂々たる低音の響きと伸びる高音のバランスの良さだけで一聴の価値あり。例えば、第1楽章再現部の主題提示の意味深さと、何よりコーダのアッチェレランドの一気呵成の前進性の生々しさはほかでは体験できないもの。
第2楽章葬送行進曲の、暗鬱たる哀悼の表現も聴く者の心を揺さぶる。第3楽章スケルツォもトリオのトラペットとあわせ晩年のフルトヴェングラーの安定した様式を引き継ぐ。
そして何よりフィナーレの乗りに乗った有機的な音楽の運びがこの演奏の白眉であるように僕は思う。それこそどの瞬間を切り取っても鳥肌が立つほど凄まじく、そして美しい。

カップリングのヒンデミットは、音楽も旋律的で意外にわかりやすく、音調はウィットに富んでおり、聴いていて愉しくなる。それに録音も優秀で生々しい。

いまは亡き友フルトヴェングラーにあって、唯一無二ともいうべき特色は、あの指揮の限りない純粋さでありました。ブルックナーがもっていたような純粋さでありました。彼を批評し羨望する人たちも、当人たちはよく知っていました。彼がタクトを振りあげるや否や、ただ音楽の魂だけがわたしたちに触れたのだということを。媒介者である彼をとおして、この魂そのものが、テンポやフレーズの運び方や全体の展開についてかならずしも意見を同じうしない人たちにも、じつに説得力のある形で語りかけてきたということを。
~同上書P56

パウル・ヒンデミットによるフルトヴェングラー追悼文の一節である。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー没後60年の日に・・・。

 

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