朝比奈隆のブルックナー交響曲第6番(1994)を聴いて思ふ

bruckner_6_asahina_1994正当な自己評価ができなかった割に、アントン・ブルックナーの創造性、そして新しいものを生み出すときの革新性は並大抵ではなかった。

過去の総括と未来への第一歩。スケルツォのトリオにおける第5番第1楽章第1主題の引用。フィナーレに聴こえる第4番の木霊。さらには、第7番、あるいは第8番へとバトンをつなぐフレーズの多用(例えば、第80小節のホルンの旋律、そして第130小節のオーボエとクラリネットの掛け合いなど)。第6番は実に生命漲る音楽だ。
レオポルト・ノヴァークが言及するように、指揮者にとってもオーケストラにとってもこの交響曲が「いささか目立たない存在であった」ことが残念なのだが、「その自然な飛び跳ね、穏やかな歌、誇らしげなリズムによって、ブルックナーの他の交響曲と同様のレヴェルにある」ことは間違いない。
(※太字は音楽之友社刊ミニアチュア・スコアのノヴァークによる序文(大崎滋生訳)から引用)

なるほど、過去の作品の改訂作業に追われ、弦楽五重奏曲という優れた室内楽作品の完成をみたその時、彼は新たな想いでライフワークである交響曲の次なる作曲活動にすぐさま手を染めた。前作である意味創造力のクライマックスを喚起し、音の大伽藍を築いた後、できることはただ「古典の枠を遵守し、それでいて斬新な作品」を世に問うことだったのか。温故知新。そして、2年の歳月をかけて生まれたイ長調の交響曲は、ブルックナーにしては珍しく、後にほとんど改訂作業のない「完成形」として既に在った。

第1楽章の主題提示から極めて直接的でひねりがなく、かつ平易な旋律が聴く者の心にストレートに響く。

ブルックナー:交響曲第6番イ長調(原典版)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1994.4.1-4録音)

「きわめて荘重に」という指定を持つ第2楽章アダージョの、明朗かつ清澄な憧憬は、ブルックナーの内側に在る安寧と良心を象徴するかのよう。ちなみに、第4番から第7番までが長調で書かれていることは、1874年1月から1883年9月までの10年間がブルックナーの人生の「陽の時期」であることを象徴するようだが、中でも第6番が書かれた1879年8月から1881年9月までが最も安定していた期間なのでは?この楽章を聴いていつもそんな印象を持つ。
短い第3楽章スケルツォの主題も実に魅力的。そして、トリオの儚さ。
白眉は当然フィナーレ。前述したように、「未来を見る」ブルックナーの目が輝きに満ちる。そして、そのことを堅実に音化する朝比奈隆の棒は見事だ。

距離の障壁、国境の障壁がなくなった。だから、日本人がドイツで演奏し、ドイツ人が日本に来る。アメリカでも黒人もいれば中国人もいればドイツ人もいるでしょう。ズービン・メータなんてインド人ですね。肌の色も関係ない。日本は少なくとも音楽に関しては、一般の聴く人が非常に真剣な受けとめ方をしてますね。どっちかというと学問的な受け取り方ですが、僕は間違った方法じゃないと思いますね。レオナルド・ダ・ヴィンチじゃないけれども、真理は常に美しい―と。
朝比奈隆わが回想(中公新書)P193-194

朝比奈がここで引用するダ・ヴィンチの言葉が素敵。

真理は常に美しいのだ、美しいものは常に真理だ。

アントン・ブルックナー190回目の生誕の日に。

 

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