チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルのベートーヴェン交響曲第5番を聴いて思ふ

beethoven_4_5_celibidache渋谷のとある企業様でのクラシック音楽講座。クレンペラー最晩年のベートーヴェンの第5交響曲を観た。アマオケでファースト・ヴァイオリンを弾き、この作品を一度だけ演奏したことがあるという女子から感想をいただいた。クレンペラーの音楽には初めて触れたそうだが、冒頭主題が重過ぎて滅入ったものの、楽章が進むにつれ次第に惹き込まれ、終楽章ではもはや涙する自分がいたと。
晩年の老巨匠の棒はほとんど不動。出てくる音楽の質もインテンポで極めて重厚、かつ遅い。それこそ刻まれた年輪が音楽に同化するのか、あるいはベートーヴェンの作品そのものが完璧で、誰がどのように振っても感動させるだけの力を持つのか・・・。
念のため、比較の意味を込め、クリスティアン・ティーレマンがウィーン・フィルと演った映像の終楽章だけを観た。テンポが揺れに揺れ、これはこれで感動させるのだが、実に不自然なアッチェレランドの頻出に閉口する。いかにも「現代風」なのはこちらなのだが・・・。

19世紀巨匠風のベートーヴェンは本当に少なくなった。久しぶりにクレンペラーを観て感極まった。ベートーヴェンはこうでなければ・・・。

録音で聴く限り、チェリビダッケのフレージングは不自然なほど自然だ。楽想と楽想のつながりが、音の強弱の切り替えが、ひょっとするとブルックナーのあの唐突さを意識しているからなのかどうなのかそれはわからないが、とにかく流れるように無理がないのだ。逆に言うと、メリハリの利かない生温さを感じさせるということ。何だか肩透かしを食らったような自然さが付きまとうのである。おそらく実演だとこの感覚は絶対になかったはず。録音の限界をみると同時に、この稀代の指揮者はやっぱり実演で聴く以外になかったのだと悟る。

ベートーヴェン:
・交響曲第4番変ロ長調作品60(1995.3.19Live)
・交響曲第5番ハ短調作品67(1992.5.28&31Live)
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

第2楽章アンダンテ・コン・モートを聴きながら、まるで機械仕掛けのようだと感じた。楽器のバランスは完全。根底にパルスもある。しかし、どの瞬間も完璧過ぎて人間味が感じられない。例えば、最終和音の浮き上がるような締め方・・・。これこそいかにも計算された「自然さ」。それがまさに難点。何とも贅沢な悩みか。
そして、第3楽章スケルツォにおけるクレッシェンドに緻密過ぎて(?)背筋が凍る。嗚呼、実演なら卒倒していただろうに・・・。
しかしながら、辛うじて素晴らしいと思えるのは終楽章。第3楽章からの移行部の不気味な静けさと、そこから一気に解放される第1主題の歓喜!!ここだけは誰のどんな演奏を聴いても心動かされるが、堂々たるチェリビダッケの棒には鬼神が宿るよう。とはいえ、外面的にはあまりにクール。それでいてこの人の心は常に平静で落ち着いている。これこそ「空(くう)」の世界の体現か。

提示部の繰り返しなく展開部に入るのは理想(近年流行の提示部繰り返しは要らずもがな)。ベートーヴェンが第5交響曲で革新的に導入したトロンボーンが咆え、ピッコロが金切り声をあげる終末は、ティンパニの轟音も手伝っていよいよ別世界への誘いと化す。決して焦らないコーダの神々しさ・・・。

終演後の聴衆の怒涛のような拍手喝采が実演の凄さを物語る。

 

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