フルトヴェングラーの「エロイカ」(1947年SP復刻盤)を聴いて思ふ

beethoven_3_furtwangler_1947秋の夜、朧月を愛でながら再びフルトヴェングラー。
これまでほとんど取り出すことのなかった1947年の「英雄」SP復刻盤(EMI)。フルトヴェングラーのスタジオ録音なら断然1952年のものが有名で、僕はもう何十年もそれを愛聴してきた。一般的にもほぼ無視されていると言って良い録音だが、久しぶりに聴いて驚いた。
例えば、第1楽章コーダ及び終楽章冒頭のアッチェレランドなどは後のEMI盤にはないもので、スタジオ録音であるにもかかわらず、例の戦時中の実況録音などに代表される、まさにフルトヴェングラーのライブならではの動的、かつ神懸かり的要素に満ち、ことによると(聴き方によっては)この人の内側に在るアポロン的側面とデュオニソス的側面が見事に融合した名演奏&名録音なのではないかと直観した。
先入観を捨て、何事も正面から虚心坦懐に対峙してみると新たな発見があるもの。

トマスを強く惹きつけたアリストテレスは、自然の中に理性を見出した哲学者だった。トマスのヒーローは、天球の運動を観察して、そこから第一動者を導き出した宇宙論者であり、生物のパターン化された発生や成長のプロセスに目的が内在していることを発見した生物学者であり、人間の理性と人間が理解する対象のあいだの根源的調和を見出した心理学者だった。トマスから見れば、アリストテレスのレンズを通して解釈された宇宙は、それ自体が神の存在や、神の善性や、創造の意図を明白に物語っていた。
リチャード・E・ルーベンスタイン/小沢千重子訳「中世の覚醒」P379

この記述に思った。フルトヴェングラーこそは、音楽のうちに「パターン化された発生や成長のプロセスに目的が内在することを発見した」音楽家であり、彼のベートーヴェンに蠢くのはまさに「自然の中に在る理性」であったのだろうと。

ベートーヴェン:
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1947.11.10-17録音)
・第2楽章第68小節までの別録音(1949.2.15録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ちなみに、宇野功芳氏によるライナーノーツには、第2楽章の一節の録り直しに関する興味深いエピソードが披露されている。

ちょうどその頃、SP用のオート・チェンジャーのレコード・プレイヤーが発明されたのだが、フルトヴェングラーの「エロイカ」は、第2楽章の第1面だけ演奏時間が長すぎ、プレイヤーにかからなかった。これでは困るというので、EMIがフルトヴェングラーに、もうちょっと速いテンポでここだけ再録音してくれないかと頼みこんだのである。いわば、フルトヴェングラーという人がいちばん嫌いなことを依頼したわけだ。しかも、ムジークフェラインの大ホールは使えず、小ホールのブラームスザールでのレコーディングである。メンバーも変わっているだろうし、編成も小さいだろう。
フルトヴェングラーはいやいや指揮を始めた。ところがやはり遅いテンポで開始したので、スタッフに懇願され、途中から速め、なんとか旧盤の4分53秒を4分39秒にまで縮めたのが、この演奏なのである。

数年の時を経て、巨匠がいやいやマイクに向かって棒を振るのである。それこそ、「発生や成長のプロセスに目的が内在すること」に逆行する逸話だ。こういう背景を知って聴くと、古き良き時代の薫り、雰囲気が演奏に如実に反映されていることがよくわかり、それが今となっては何とも微笑ましい。
それにしてもフルトヴェングラーの「エロイカ」はどんなシチュエーションのどんな録音であろうと絶品。

 

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