モントゥー&ウィーン・フィルの「幻想交響曲」を聴いて思ふ

berlioz_monteux_vpo_1958エクトール・ベルリオーズ。誇大妄想的。その意味では、リヒャルト・ワーグナーと双璧だが、ベルリオーズの方が一層病的かつ、現代でいうところの「ストーカー」的偏執狂だろうと想像する。

傑作「幻想交響曲」の成立事情は興味深い。パリ音楽院の学生だったときに、イギリスから来たシェークスピア劇団の「ハムレット」に衝撃を受けたことがそもそものきっかけ。何よりその際オフェリアを演じていたハリエット・スミッソンに激しい恋心を抱き、何通ものラブレターや面会の申し込みを一方的に送りつけたこと。
当然彼女は気味悪がって無視したわけだが、それでも一度火のついたベルリオーズの恋の炎は収まらず、ついには裏返しの「憎悪の感情」にとって代わり、作品の中でスミッソンを殺してしまうに至る。

あくまで、作品の中での妄想であることがミソ。
音楽に情景が読み込まれ、作曲者の心理が投影され、しかもそれが大管弦楽によって妖艶な響きをもって表現されるのである。
ここに真に「ロマン派」と呼ぶべき時代が始まった。

誇大妄想癖のある人は多分に精神的には弱い。ワーグナー然り。
創作に当たりベルリオーズが感化されたのは、シェークスピアであり、ベートーヴェンであり、そしてゲーテだった。この点についてもワーグナーと相似。

音楽をば世界の本質の最も内的な夢幻像の啓示と呼んだ以上、シェークスピアはうつつに於てもなお夢みつつあるベートーべンである、と言ったとて一向差支えないであろう。此両者の圏を別つところのものは、彼等の中に妥当する統覚の法則の型式的諸制約にしかすぎない。・・・(中略)・・・今やベートーベンは芸術の型式的法則への彼の態度並びにその法則に浸透して解放すると云う二つの点に於てシェークスピアと全く同様の位置に立っている。
リヒャルトワグナー/蘆谷瑞世訳「ベートーベン―第九交響曲とドイツ音楽の精神」P116-117

なるほど、ワーグナーの言う「最も内的な夢幻像の啓示」という言葉は、そのまま「幻想交響曲」にも当てはまる。さらにワーグナーは次のようにも・・・。

我々は「ファウスト」及「ウィルヘルム・マイステル」の考案が共にゲーテの詩人的精霊の最初の輝かしい開花の時期に於てなされたことを知っている。彼を満たしていた思想の深い熱情は、まず彼を「ファウスト」の最初の幾場面かの執筆に追いやった。しかし彼は自らの考案のあまりにも極端に走ったことに驚いて、そのなみなみならぬプランから背を向けて「ウィルヘルム・マイステル」の中にある問題をより落着いた型式に於て把握することに向かった。壮年の成熟期に於て彼はこの軽く流れゆく様な小説を完成した。・・・(封略)・・・そして事実彼は眼覚めた。非常な老年に至って「ファウスト」は完成された。彼を今まで散乱せしめていたところのものを、ゲーテは一切の美の原像に於て包括したのである。
~同上書P148-150

ゲーテが老年に至って成し遂げたことをベルリオーズは早くも20代でやってのけたと言っても言い過ぎでなかろう。
ピエール・モントゥーの十八番「幻想交響曲」を聴いて空想が膨らんだ。

・ベルリオーズ:幻想交響曲作品14
ピエール・モントゥー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1958.10.20-24録音)
・ストラヴィンスキー:バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)(1956.10.29-30&11.10録音)
ピエール・モントゥー指揮パリ音楽院管弦楽団

第1楽章冒頭の、水の滴るような柔らかな響きに惹き込まれる。弦も管も打楽器も、何という充実した深みのある音を奏でるのだろう。恋い焦がれるベルリオーズの真実が、音符のひとつひとつも無駄にして音化される妙。第3楽章「野の風景」における、いかにもウィーン風の柔らかい木管の調べと弦楽器の交錯する優美さは束の間の平安だ。白眉はやはり終楽章「魔女の夜宴の夢」。どの瞬間も余裕があり、堂々たる音の風景。鐘の音と交錯する「怒りの日」のコラールの場面で思わず陶然・・・。「幻想」が「現実」に呼び戻される・・・。

ところで、文筆家としてのベルリオーズのウィットに富んだ空想的表現は、実に読みにくいが極めて面白い。同様に彼の生み出した音楽も、表現、解釈によって左右されるだろう。生涯に5度もの正規録音を果たしたモントゥーはさすがにそのあたりの機微が掴めていたとみる。以下、ベルリオーズによる「音楽のグロテスク」という名のエッセー。

音楽というのはさまざまな芸術のなかでも、特におかしな情熱家やとんでもない野心家を生み出す芸術に違いない。その彼らは、かなり特徴的な偏執狂者とも言えるだろう。その彼らは、かなり特徴的な偏執狂者とも言えるだろう。・・・(中略)・・・
オノレ・ド・バルザックは「ガンバラ」という作品のなかで、ジョアキーノ・ロッシーニの「モーゼ」を理論的に分析しようと試みた。一方、ギュスターヴ・プランシュはルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの「英雄交響曲」についての奇妙な評論を活字にした。この二つともがひどいものだった。とにかく、バルザックの音楽への狂気は痛ましいほどだった。彼は何もわからず感じないまま賞賛し、自ら熱狂していると思い込んでいた。反対に、プランシュの非常識さは腹立たしくもばかげたものだった。何もわからず、感じず、そして知りもしないまま、彼はベートーヴェンを中傷し、交響曲の書き方を教えてやりたいと言い張っていたのだ。
ベルリオーズ著/森佳子訳「音楽のグロテスク」(青弓社)P26-27

ベルリオーズからすると、例えば僕のような素人がこうやって毎日のように音楽を採り上げて云々する行為も「偏執狂的」に見えることだろう。特に、中傷や批判については心せよと。真に当を得たり。
ちなみに、「火の鳥」(1919年版)も職人モントゥーらしい緻密で知的な表現で、どの瞬間も有機的な響きを保つ。いかにも目の前でバレエが繰り広げられるかのような錯覚を起こさせるリアルな描写的音像・・・。これについてはまた別の機会にでも書こう。

 

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1 COMMENT

畑山千恵子

ベルリオーズはスミスソンと結ばれたとはいえ、結婚生活は幸せではありませんでした。とはいえ、あれだけ夢中になっても、現実はそうではなかった。その後を見ると肯けますね。

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