最晩年に会ったときの朝比奈を思い出す。
東京文化会館でのリハーサルを見学したときである。休憩中に楽屋をあがったところにあるパティオに出て、私はカメラのレンズを向けた。朝比奈の顔色は冴えなかった。その表情にもいつもの笑いが浮かばなかった。私のほうもつい寡黙になりながらシャッターを押した。
エレベーターで一緒にリハーサル室にもどるとき、朝比奈が静かに言った。
「ブルックナーの7番は長すぎる」
朝比奈らしくない物言いだった。
これまでは「立っているのが仕事です」と洒脱に言っていたのに、おそらく立っていることが苦痛になってきているのだと思った。
~中丸美繪「オーケストラ、それは我なり―朝比奈隆4つの試練」(文藝春秋)P313
第7番が長すぎるとは・・・。
それが最後かどうかなどは誰にもわからないこと。
しかし、最後の年の朝比奈隆の演奏は、そのどれもが透明な、ほとんど人間臭さを感じさせない、達観したものだった。例えば、大阪フィルの定期演奏会でとり上げたブルックナーはどれもがそうであるし、僕が東京で触れることのできたブラームスやブルックナーの演奏も筆舌に尽くし難い、真に崇高な表現だった。そのことは、残された録音を聴いてみても歴然としていた。
脱力の交響曲第7番ホ長調。大阪フェスティバルホールでの定期演奏会ライヴ録音。音楽は朝比奈とは思えない快速テンポの、清流のような、このほとんど作為、企図を感じさせないブルックナーこそ、(大袈裟だけれど)神の境地に辿り着いたであろう朝比奈の最後の姿であり(大阪フィル最後の定期演奏会)、結論だったようだ(実際には遅いテンポだと時間的に体力が持たないから年を追う毎にテンポが速まって行ったと考えることもできるが)。それはもう聖なる儀式のような渾身の演奏だった(無垢なる第1楽章アレグロ・モデラート!!)。
ブルックナー:
・交響曲第7番ホ長調(ハース版)
・リハーサル風景—第1楽章より
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(2001.5.10Live)
流麗な第2楽章アダージョがこれまで以上に心に沁みる。特に、(ワーグナーを悼んで、あるいは死を予言して書かれた)コーダの、それまでの朝比奈の演奏以上の純白さ、それも決して抹香臭くない純粋さに驚嘆する。続く第3楽章スケルツォも極めて自然で、力みが全く見られないことが奇蹟。そして、金管群の咆哮も抑え気味で、ワーグナーの安息を祈るかのように静かな(?)終楽章も屈指の名演だ。
8分強と短いながらおまけで収録される第1楽章のリハーサル風景が興味深い。
もはややかましく指示を出すことなくポイントだけ押さえ、あとはオーケストラの自発性に任せるというような方法で音楽が見事に形成されていく様子に朝比奈隆と大阪フィルの揺らぐことのない信頼関係を垣間見るようだ。