クロスリー ミュレイユ サロネン指揮フィルハーモニア管 メシアン トゥーランガリラ交響曲(1985.11録音)

「生きる悦び」のわずか2ヶ月後の1952年1月には、実験工房第2回発表会として、市ヶ谷の女子学院講堂で「現代作品演奏会」が開催された。園田高弘(実験工房メンバー)のピアノに岩淵龍太郎のヴァイオリンなどを加え、メシアンの「ピアノ前奏曲集」と「世の終りのための四重奏曲」、コープランドの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」、バルトークの「ピアノ・ソナタ」、デロ・ジョイオの「2つの前奏曲」、バーンスタインの「4つの記念」など、いずれも日本初演の現代音楽ばかりだった。特にメシアンは、このときはじめて日本に紹介されたことになる。メシアンがどれほど日本で知られていなかったかは、前にも紹介したエピソードだが、この会場の近くに住んでいた音楽評論家の山根銀二(「2つのレント」を“音楽以前”と酷評した人)の家を、武満や秋山たちがそろって訪問し、メシアンをやるからぜひ聞きにいらしてくださいと誘いにいったところ、山根が、「そんなどこの馬の骨ともしれないやつの作品なんか聞きたくない。そいつがもう少し大成したら聞きにいくよ」といったということでよくわかるだろう。
立花隆「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋)P155-156

武満ら、当時の実験工房のメンバーの慧眼としか言いようがない。興味深いエピソードだが、今となっては「前衛」ともいえない20世紀の傑作をけんもほろろに相手にしなかった評論大家の先入観に愕然とせざるを得ない。

中でも、オリヴィエ・メシアンの音楽こそが、武満徹の音楽にも通ずる、現代のイディオムと過去無量のあらゆるイディオムを統合し、そこに神聖なる精神を投影した、大自然の法則にも則る現代の傑作たちであることを忘れてはならないだろう。例えば、「トゥーランガリラ交響曲」。

若きサロネンが、また良い仕事をしているのである。

・メシアン:ピアノ、オンド・マルトノと大管弦楽のための「トゥーランガリラ交響曲」
ポール・クロスリー(ピアノ)
トリスタン・ミュレイユ(オンド・マルトノ)
エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団(1985.11.11-14録音)

男性性を表わすピアノと、女性性を示すオンド・マルトノの奇妙な饗宴。
そこに管弦楽が壮大な伴奏(?)を繰り広げることで、大宇宙の音と小宇宙の音が見事に錯綜し、紡がれ、一つに統合されるのである。あらゆる生命活動を表現した音楽は、死をも包括するが、すべてが必然的な命の営みであることを僕たちに知らしめる。

メシアンは語る。

私は、自らの信仰告白を表明するよう求められております。すなわち、何を信じているか、何を愛しているか、何に希望を置いているかを語るように。
何を信じているか? これは語るに多くを要せず、次の一言でたちまちすべてを語り尽くしてしまいます—神を信じております。神を信じているが故に、同じく聖三位一体を、聖霊を、独り子、すなわち言葉が肉となったイエス・キリストを信じているのです。

アルムート・レスラー著/吉田幸弘訳「メシアン―創造のクレド 信仰・希望・愛」(春秋社)P36

僕の感覚では、メシアンの音楽は宗教を超えている。ただひたすらそこには「信」あるのみ(「信仰」ではない)。その意味で、トゥーランガリラ交響曲は普遍的であり、永遠だ。特に、サロネンの棒によって示された壮大でリズミカルな音楽は、胸を打つ。
それにしてもミュレイユのオンド・マルトノとクロスリーのピアノの絡むシーンのエロスよ!!(メシアンのいう愛には、エロスもアガペーも、すべてを超越した愛がある)

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