所沢、西武航空公園駅。初めて訪れた所沢市民文化センター・ミューズ・アークホール。とにかく自然が豊かで空気が澄んでいる。都心から電車で40分ほど離れるとこうも違うのかと実感。待ちに待った「クリスチャン・ツィマーマン・ピアノリサイタル2009」。ホール内はおそらく地元以外の遠くから馳せ参じたのであろうファンで超満員。さすがである。
5月9日(土)にスタートした2009年の来日縦断ツアーもいよいよ今日が最後のようで、疲れ知らずのこの白髪の紳士が聴衆の熱気に揉まれながら静かに登場すると、圧倒的な拍手喝采が会場を包み込んだ。
まずは前半。
・J.S.バッハ:パルティータ第2番ハ短調BWV826
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
予想外にピアノの鳴りが悪い(と最初は感じた)。1ヶ月以上のツアーをこなしてきた天才ピアニストもさすがに疲れが溜まっているのか、一瞬不安が過ぎる。
それでも1曲目のシンフォニアから始まり、アルマンド、クーラントと尻上がりに音の鮮度が増してゆく。僕は4曲目サラバンド以降に惹かれた。間違いなくツィマーマンの音だが、そこにはバッハ独自の世界がある。目くるめく音の拡がりを感じさせてくれる演奏だった。2000年にアルゲリッチが久しぶりにソロ演奏を披露したときに聴いたパルティータ第2番も優れものだったが、それに優るとも劣らない音楽だった。そしてベートーヴェンの作品111。嗚呼、この音楽には特別な思い入れがある。幾人ものピアニストで散々聴き比べをしてきた。エリック・ハイドシェックのそれ、内田光子のそれ。実演で聴いた演奏ではこれまでその両者が抜群であった。もちろんそれ以上か、少なくとも同等か、当然そういう期待をする。しかし、問題はツィマーマンの演奏が意外に正当であっさりとしていたところ。ベートーヴェンのこの最後のソナタは楽聖が最後に辿り着いた究極の神懸り世界である。人間の五感のすべてが機能し、毛穴という毛穴が開きっぱなしになる音楽。そこには喜怒哀楽の全てと「空(くう)」が含まれる。第1楽章の、全人類の苦悩を背負ったかのような怒りと悲しみ。そして急転直下の如くクールダウンする第2楽章の「無」の境地。第2楽章に関しては、本当はもう少しじっくりと緩やかに弾いてもらいたかったというのが僕の本音。最近ではウゴルスキ盤に特別な愛着を感じていただけに、あまりに速過ぎてそっけない(特に真ん中あたりに登場するリズミカルなところ)。ただし、決して不満なわけではない。間違いなく良かった。一昨日のアファナシエフのときの失望とは比べ物にならない充実感がある。これはこれでよかろう。
そして、休憩後の後半。
・ブラームス:4つの小品作品119
・シマノフスキ:ポーランド民謡の主題による変奏曲作品10
ブラームス晩年の孤高の境地を示す最後のピアノ小品集。第1曲間奏曲からもう半端じゃなく素晴らしい。ツィマーマンにはこういう感情表現の坩堝と化す音楽が似合う(枯れた味わいの寂然とした楽曲の中に突如情熱的なフィーリングが現れるところがこれまた欲求不満男ブラームスらしい・・・笑)。
ところで、僕は本日の白眉はラストのシマノフスキだったと確信する。さすがに祖国ポーランドの作曲家の音楽は自家薬籠中なのだろう、最初のテーマからしてこれ以外にないというほどの魂の迸りが体感できる。その後に続く10の変奏もどれも激しく美しい。特に、第8変奏「葬送行進曲」の寒気を催すほどのピアニズムと第9、第10変奏の対比がすこぶる身に染みた。シマノフスキの音楽にこれほど引き込まれるとは正直思わなかった。ロマン派の影響をわずかに受けながらも独
自の美意識にのっとって書かれている20世紀初頭の音楽はこのシマノフスキに限らずどれも素晴らしい。
おはようございます。
ツィマーマンの今回の来日公演が、岡本さんのご感想のとおり「意外に正当であっさりとしていた」のであれば、現在の彼への強い期待とは違う方向性だっとと思いますので、私は行かなくてよかったです。
こういうお話を伺いますと、やはりピアニストも、超一流高級ブランドが品質的に最高という時代では無くなっていると、強く確信してしまいます。邦人ピアニストでも斬新な解釈で聴衆に強い感銘を与え、技術的にも音色的にも最高レベルのピアニストは、数多くいますので、純粋にいい音楽を聴く目的だけなら、超一流高級ブランドは全く必要ではありません。
ツィマーマンは違うと思ったんですが・・・。
岡本さんなら当然チェックされておられるでしょうが、「The Asahi Simbun GLOBE」(紙面では6月8日掲載)でのファジル・サイの発言は、最近私が漠然と感じていたことと似ていて、強く心に響きました。
・・・・・・クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人まかせになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない。
ハイドンのピアノ曲は、演奏技術的にはとても簡単で、8歳の子どもでも、何曲かは演奏できる。しかし、内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい。3、4分で映画のサウンドトラックのように「物語」をつくらないといけない。
自らの「内なる声」を取り出し、楽器に伝えるというのが、作曲でも演奏でも、音楽のとるべき方向なのだ。クラシックのピアニストの大半は今日、そうした方向性を持っていない。ジャズピアニストのキース・ジャレットを例に出せば、彼のピアノの音にどれだけの感情がこもっていることか。まるで「歌っている」ようだ。音楽の内面が演奏されているから、彼のピアノは人間の声のように聞こえる。
(中略)
ベートーベンやモーツァルトでさえも、即興的な作曲家だった。シューマンは、毎日のように即興演奏を自分の生徒に聴かせていた。彼らは当時(自分の曲を)キース・ジャレットのように演奏したはずだ。
(中略)
ジャズの人たちから「フェスティバルで演奏してくれ」と頼まれる。保守的なクラシック音楽界には「同じ人間が、ジャズの音楽祭でも演奏するのか」という批判もある。しかし、同じ作品をカーネギーホールでもサントリーホールでもジャズの音楽祭でも演奏する。それが自分の音楽なのだ。
作曲したり演奏したりするとき、これが何音楽か、ということは考えない。
「内なる声」を伝えようとすれば、ジャンルの境は自然と越えてしまうものなのだ。・・・・・・
http://globe.asahi.com/meetsjapan/090608/01_01.html
ところで、シマノフスキはいいですよね。私は弦楽器が好きなので、ヴァイオリニストのツィンマーマン(ピアニストのツィマーマンと名前が紛らわしい!)の実演に接した機会は多いのですが、彼の新譜のシマノフスキのヴァイオリン協奏曲2曲は、とてもいいです。ファジル・サイの追求する音楽性とは少し異なりますが・・・。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3547578
>雅之様
おはようございます。
ツィマーマンはひょっとすると演奏会のやり過ぎなんじゃないかと思う面もあります。もちろんそれだけニーズがあるゆえ、演奏者としては聴衆の期待に応えるためにもできるだけたくさんそういう機会をもとうとする気持ちは大切なんですが。
1ヶ月範囲及ぶ今回のツアーについての感想を様々な方がブログ上で書かれているので、いろいろと参考にみると概ね「最高」という評価ですので、最終日だった今回はやっぱり少々疲れ気味だったんじゃないかと思うのです。プロならいついかなるときもベストのコンディションを保つべきというご意見もあるかもしれないですが、人間である以上あまりにスケジュールがタイトで過酷だと無理なからぬことだと思います。
今回の所沢公演はS席¥7,000ということもあり、サントリーホール公演の半分以下ですから、まさか多少気を抜いて演奏したわけじゃないと思いますしね(笑)。
とはいえ、素敵でしたよ、ブラームス。そして何といってもシマノフスキ。これは吃驚するほどの名演でした。
>「内なる声」を伝えようとすれば、ジャンルの境は自然と越えてしまうものなのだ。
ファジル・サイのこのインタビューでの発言は意味深いですね。演奏する側も聴く側もいかに「目に見えない枠」を超えられるかですね。
ツィンマーマンのシマノフスキ、これは良さそうですね!