何という複雑な人間模様。
現代にも起こりうる恋沙汰と嫁姑問題の坩堝。各々のエゴが徹底的にぶつかり合い、最後は主人公の自殺によって幕が下ろされるレオシュ・ヤナーチェク渾身のオペラ。イタリアのヴェリズモ以上のヴェリズモではなかろうか・・・。物語はともかく音楽は抜群に美しい。管弦楽はワーグナー風の「エロス」に溢れ、歌はイタリア風のそれを思い出させるシーン満載。
第2幕最後、カーチャはボリスの熱烈な告白にいよいよそれを受け容れる。ボリスの遠くからの歌の何とも妖艶な響きは、これぞイタリア歌劇!!
僕は前からあなたのことを知っていた。
この世の果てまでも君について行きたい。
そして、カーチャは歌う。
私の生命、地の果てまでもあなたについて行きたい!
1919年から21年にかけて作曲された歌劇「カーチャ・カバノヴァー」は、まさに作曲者本人の人妻カミラへの底知れぬ恋心を空想のストーリーに仕立てた私小説的作品だ。ここには、自身の決して達成することのない夢、願望が描かれる。何より最後、カーチャを殺してしまうところがおそらくヤナーチェクの心を動かしたのだろう。自分の手に届かないものは消してしまえという恐ろしくもエゴイスティックな性。しかも、夫チホンに最後次のように言わせるのだ・・・。
カーチャを殺したのは母さん、あんただ、あんた以外の誰でもない!
何と見苦しい・・・。母カバニハからカーチャを守れなかった自分の甲斐性のなさが原因なのに・・・(しかも最後の幕でカーチャはボリスにこう言っているのだ「主人は優しくしてくれるかと思うと、急に怒り出すのよ。お酒を飲んでは私をぶつの!」)。チホンは間違になくアダルト・チルドレン。高圧的な母に抗しきれず、抑圧されたものを妻カーチャにぶつける様は実に情けない。こういう、すべてを人のせいにする姿勢は、人間のどこまでも終わることのないエゴを象徴する。
ヤナーチェク:歌劇「カーチャ・カバノヴァー」
エリーザベト・ゼーダーシュトレーム(カチェリナ(カーチャ)、ソプラノ)
ペテル・ドヴォルスキー(ボリス・グリゴリェヴィチ、テノール)
ネデズダ・クニプロヴァー(マルファ・イグナチェヴナ・カバノヴァ(カバニハ)、アルト)他
ウィーン国立歌劇場合唱団
サー・チャールズ・マッケラス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1976.12録音)
それにしても、ここに登場する男たちは皆ひどい・・・。
ボリス・グリゴリェヴィチなど、第3幕においてはカーチャの愛を振り切って叔父の言いなりになってシベリアに行くことを決意する(とはいえ一方で、彼女の家庭を壊したくないという優しさも見られるのだが)。
カーチャのボリスへの想いを綴るモノローグ。
(胸を指して)ここが痛むの!彼と一緒に生きていけたら、まだ楽しみも味わえるのに・・・
ああ、あの人が恋しい!
もう二度と会えないなら、せめて遠くで私の声だけでも聞いて!
ボリスの最後の言葉。これこそヤナーチェクの内心の声。
ああ、この辛い別れを奴らに知らせてやりたい!この辛い思いを!
マッケラスの指揮は相変わらず最高!
※太字対訳は日本ヤナーチェク友の会編「カーチャ・カバノヴァー」から引用
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男のエゴと言うよりも、姑の横暴さも絡み合った複雑なオペラです。一筋縄ではいかない面がありますね。これがチェコのオーケストラ、歌手、指揮者だったらどうでしょうか。もっと、別な面をかもし出すかもしれませんね。
>畑山千恵子様
カバニハの横暴さもエゴですね。その意味ではカーチャもエゴイスティックです。要は男女の差なく「エゴ」にフォーカスをあてたオペラだと思います。
[…] 人間世界の酸いも甘いも、レオシュ・ヤナーチェクの選択する歌劇の題材は、いつもとても興味深い。何より僕は彼の思想に触発され、啓示を受け、いつも考えさせられるのである。 例えば、「利口な女狐の物語」では、生命を育む自然の雄大さと神秘から、作曲家の描く輪廻を超え、その環からいかに逃れねばならないかを教えられた。 あるいは、「カーチャ・カバノヴァー」からは、現実には決して越えられない、否、越えてはいけない関係があり、間違って越えてしまったときの(目には見えない)業というものの恐ろしさを知った。そしてまた、生こそが死であり、死がいわばあらゆる苦悩からの卒業であり、浄化なのだということを「死者の家から」からあらためて学んだ。 […]