マルコヴィナ ガーベン ワーグナー(フンパーディンク編曲) ワーグナー 「パルジファル」(4手連弾版)(2012.5録音)

コード・ガーベンは書く。

ピアニストが、楽器の機械部分と熱心に取り組み、技術者がそばにいることを重視するべきだ、ということは自ずと理解できるだろう。しかし、指使いの問題や、ハンマーヘッドのフェルトの質で頭を悩ますことのないタイプのピアニストは、現在もいるし、昔もいた。そして、彼らの功績もまた素晴らしいのだ。
老いたヴィルヘルム・ケンプが、ハノーファーのベートーヴェン・ホールで行われた録音の冒頭で必ず—「ここだったら家族に邪魔されることはない」(その家族はミュンヘンのアンマー湖のほとりに、ロリオーの隣に住んでいた)—感激に目を輝かせながらローベルト・リッチャーが準備した楽器に近寄り、何度か試験的にアルペジオを弾いた後に、我々にこう言うことは分かっていた。「良い楽器だ」。それから彼は音楽を奏でるのであった。

コード・ガーベン著/蔵原順子訳「ミケランジェリ ある天才との綱渡り」(アルファベータ)P217

優れたピアニストのすべてが楽器の性能を熟知し、楽器と一体になって音楽を奏でるわけではないそうだ。モノにも魂があるという。当然だろう。音楽の良し悪しは、技術的な問題だけでなく、「末と本」でいうところの本、すなわち本質、真理と通じているかどうかということだ。

ガーベンは主に歌手の伴奏ピアニストとして活動しているが、孤高の天才ミケランジェリの協奏曲録音での伴奏指揮を務めたことでも知られている。なるほど、先の言葉も含め、彼の視点の鋭さ、確かさはミケランジェリとの活動の中で磨き上げられたものだといっても良いのかもしれない。

コード・ガーベンはどんなときも、あくまで黒子に徹する。
それゆえに、彼の生み出す音楽はぶれがなく、そして堅実だ。

エンゲルベルト・フンパーディンクの編曲による舞台神聖祭典劇「パルジファル」が端正でまた美しい。

ワーグナー(フンパーディンク編):「パルジファル」(4手連弾のための編曲版)
・前奏曲
・アムフォルタス
・癒しの薬
・白鳥
・聖盃の城への入場
・愛の儀式
・クリングゾルとパルジファル
・花の乙女
・心の苦悩
・聖金曜日の魔法
・ティトゥレルの葬儀
・救済
アナ=マリヤ・マルコヴィナ(ピアノ)
コード・ガーベン(ピアノ)(2012.5.25-27録音)

バイロイトはシュタイングレーバーハウス室内楽ホールでの録音。
リヒャルト・ワーグナーの助手として活躍したフンパーディンクの筆による敬虔な「パルジファル」のパラフレーズ。単色の音楽であるがゆえに余計に音楽の真髄が手に取るように見える。

静寂に包まれた前奏曲から美しい。
2人のピアニストが心を一つにして奏でるワーグナー最後の舞台神聖祭典劇。
一般大衆がこの作品を知るには、バイロイトの祝祭劇場を訪ねるしか方法がなかった時代にあってピアノ編曲版の持つ意義は大きかったのだが、当時の状況に思いを馳せ、虚心に耳を傾けてみると、さすがに長年にわたってワーグナーの助手を務めただけあり、音楽の隅々にまで師匠への尊敬の念とワーグナー音楽への愛情が刻印されることがわかる。

あるいは、「アムフォルタス」の思慮深さ、また悪魔と契約したクリングゾルと聖愚者パルジファルとの対比を描く「クリングゾルとパルジファル」から「花の乙女」、「心の苦悩」という現世の苦海が見事な音楽で示され、ついに「聖金曜日の音楽」へと昇華される様子に心が躍る(感激)。

ワーグナーとの対話の中でフンパーディンクはかく語る。

エンゲルベルト、総譜に取り組んでいる間、私はあの目に見えない世界の中で、素晴らしい、心躍らせる多くの体験を重ねてきた。この世界のことなら、君に対しては、少なくともある程度までは定義できる。
まず、何を差し置いても信じているのは、人間の魂を全能者の中心にある力と結びつけているのは、この遍在する、震動するエネルギーだということだ。この中心にある力から、我々すべてがその生存を負っている生命の原理が流れ出る。このエネルギーが、我々すべてがその一部である宇宙の至高の力に、我々を結びつけている。そうでなければ、我々自身、その力と意思を伝え合うことはできないだろう。これができる者が霊感を受けているのだ。

それに対して、フンパーディンクはさらにその感覚の詳細を説明するよう求めるのだ。

あの恍惚状態にある間、私の感覚はとてもはっきりしている。この状態は、真の創造的な活動すべてに不可欠なものだ。私はこの振動する力と一体であり、その力は全知であって、その力を、ただ私自身の能力の及ぶ限り、引き寄せられると感じている。
なぜベートーヴェンは、たとえば、当時の群小作曲家の一人、ディッタースドルフよりはるかに多くその力を自分のものとしたのか? それは、ベートーヴェンがディッタースドルフより、自分と神との一体性をはるかに強く意識していたからだ。ベートーヴェン自身がそう語っている。我々にはそういう趣旨の証拠となる文書が残されている。

リヒャルトの言葉にある重みを感じとり、フンパーディンクはますます引き込まれて行く。
そして、ベートーヴェンと他の作曲家の最大の違いについて次のように語るのだ。

私は神が、ある者には他の者よりご自身を多く顕されるとは信じていない。私の考えでは、我々は皆生れた時、あの力と同等の関係を持っている。だが多くの事柄が我々に対して不利に作用する—遺伝や育った環境、機会、初期の教育等々。たとえば、無神論的な育ち方をした場合は致命的だ。かつて無神論者が、偉大で不滅の価値を持つものを創造したことはない。
アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P209

少なくともワーグナーは、性格や性質という仮の自分が、全知全能たる真我の力量を邪魔する存在であることを理解していたように思える。
それにしても完成ならなかった「勝利者」について、それがもしワーグナーの手によって完成されていたらどんなものになっていたのか、実に興味深い。トーマス・マンの言葉を引く。

仏陀劇、そこにはまさしく難点がある。それは形容の矛盾(contradictio in adjecto)である—これは彼にも、あらゆる情熱から解放された完全に自由な人間、仏陀その人を、ドラマの、それも主として音楽的な表現のために役立てようとすることの困難に直面して、明らかになったことである。純潔なもの、聖なるもの、認識によって浄化されたものは、芸術的にみれば死んだものである。神聖とドラマは統合されえない、これは明らかである。そして幸いなことに釈迦牟尼・仏陀が、史実によると、あるのっぴきならぬ問題の前に立たされて、のっぴきならぬ葛藤にまき込まれるのである。つまり、仏陀は、チャンダラ娘サヴィトリを自分のこれまでの主義に反して聖人の列に加える、という決心をやむなくしなければならなかった。ありがたや、仏陀はこれによって芸術の対象となりうるのである。ワーグナーは歓ぶ—同時に芸術の生との結びつきが、誘惑者としての芸術の力の認識が、重く彼の良心の上にのしかかる。彼は急にはドラマを欲して神聖を欲しないという気になれなかったのである。
トーマス・マン/小塚敏夫訳「ワーグナーと現代(第2版)」(みすず書房)P103-104

ドラマが個性(我)をいかに貫くかが鍵であるのに対し、神聖は限りなく無心無我の境地に達せんとする意志が必要であることは自明だったが、ワーグナーはその矛盾・ギャップを「パルジファル」によって埋めることにほぼ成功したといっても間違いないだろう。そして19世紀末にあってその作品を世界に宣伝効果を発揮したのがフンパーディンクによる4手連弾版であった。

実に奥が深い、深遠な世界だ。

過去記事(2015年9月23日)


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