
トーマス・マンは愛すべきワーグナー芸術を必死で否定しようと(?)試みたけれど、答を出すことは叶わなかった。この、19世紀の天才の芸術は永遠なるもので、それらを凌駕するものはある意味今もないと言い切れるのではない。そこには理性を超えた、好き嫌いの、独自の毒が明らかにある。
だが、20世紀の名作に思いを馳せると、ワーグナー的なものとは大いに本質的に異なり、さらに私の信ずるところによれば、はるかに秀でたあるものが、私の眼前に彷彿とする、—特に論理的で、形式豊かな、明朗なものが、厳しいと同時に快活なものが、ワーグナー的なものに劣らず意志を緊張させるものが、だが、はるかに大胆で、はるかに卓越した、はるかに健康的でさえある精神性をもったものが、偉大さをバロック的巨大さのなかに、美しさを陶酔のなかに探し求めないあるものが、—私が思うに、一つの新しい古典時代が到来するにちがいないのである。
しかし、依然として、思いがけずにワーグナー作品の一つの音響が、種々関連ある表現法が、きこえてくると、私は喜びのあまりはっとする。故郷と青春を偲んで一種の感傷に陥る。そして再び昔のように、私の精神は、賢明で巧妙な、憧れにみちた、老獪な魔力に屈服する。
「リヒャルト・ワーグナーとの対決」(1911年7月)
~トーマス・マン/小塚敏夫訳「ワーグナーと現代」(第2版)(みすず書房)P24-25
理性を超えて感覚を刺激するのがワーグナーの音楽だ。
数多あるどんな演奏をもってしても、どんなレコードをもってしてもワーグナー音楽の呪縛から免れることは難しい。
RCAの《ワルキューレ》の録音では、あるエピソードをよく覚えている。ロンドンに着いて、いつものグレース・ホフマンでなくリタ・ゴールがフリッカを歌うと知った私は、驚いてシュトゥットガルトのグレースに電話して、病気なのかとたずねた。いいえ、元気そのものよ、ただいつロンドンにいけばいいのか連絡を待っているの、と答えたので、私は、リタ・ゴールが彼女の役を歌うことになったと知らせると、彼女は気が動転してしまった。彼女はさっそくエージェント—いつもは結構あてになるアルフレット・ディーツにさっそく電話を入れたのだが、彼は事の経緯をすべて把握していたのに、彼女には何も知らせていなかったのだ。ただ、今後の契約を考えて、トラブルを起こさないよう彼女に助言したそうだ。ディーツはゴールのエージェントもしていたから、この件に関して彼には何の損失もなかったはずだ。
~ビルギット・ニルソン/市原和子訳「ビルギット・ニルソン オペラに捧げた生涯」(春秋社)P431
エーリヒ・ラインスドルフがロンドン交響楽団と録音したワーグナーの楽劇「ワルキューレ」にまつわる裏話が、ビルギット・ニルソンによって暴露(?)されている。
録音現場の人間模様というのか、音楽の解釈や演奏の優劣、録音の可否、音楽的なこととは別に、音盤の制作には様々な人間関係の苦労が垣間見られ興味深い。人を傷つけまいと都合の悪いことは隠そうとするのが今も昔も人の常。真相はこうだ。
あとでわかったことは、指揮者エーリヒ・ラインスドルフがホフマンを降ろしたのだという。彼女は以前のレコーディングのとき、彼に向かってもっと明瞭に振ってくれと言ったことがあって、それがマエストロの頭にしっかり記憶されていたらしい。
~同上書P432
演奏そのものは、速めのテンポで一気呵成にうねる第1幕前奏曲に始まり、実に有機的に物語は進行する。
1時間半近くを要する第2幕の恍惚。中で第2場、ブリュンヒルデの出自をヴォータンが語る長大なモノローグの静かな不安の熱気は(アルベリヒの呪いこそヴォータンの怖れの核心)、ジョージ・ロンドンならではの歌唱だろう。あるいは、ブリュンヒルデとジークムントが絡む静謐な第4場でのビルギット・ニルソンの歌の、ワルキューレならではの勇敢な心の機微までも表現する技量よ。
追いつめられたあなたの
苦衷のほどは察しています。
高邁な心映えゆえの憤りも
分からないではありません。
ジークムント、愛する女を私にまかせて、
間違いなく守ってあげます!
~日本ワーグナー協会監修/三光長治・高辻知義・三宅幸夫・山崎太郎編訳「ヴァルキューレ」(白水社)P89