ジョージ・ロンドン・シングス・ワーグナーを聴いて思ふ

george_london_great_scenes_from_wagner210おそらくバレエ・リュスでのセンセーショナルなデビューが、ストラヴィンスキーに「音楽は見るものだ」と言わしめたのだろうと思う。あるいは、もともと彼が持っていたその素養をディアギレフが即座に見抜いたとも考えられるけれど。

どこかで私は、音楽を聞くだけでは不十分で、さらに音楽を見る必要があると言いました。あまりにもしばしば音楽のメッセージを伝えるという使命を自らに与えて、そのメッセージを見せかけで歪めている、あの気取り屋たちの礼儀の悪さについてはなんと言えばよいのでしょう。というのも、繰り返して言いますが、音楽とは見られるものなのです。経験豊かな目は、ときとして自分の知らぬ間に、演奏実行者のほんの些細な身振りをすら追い、判断します。
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「音楽の詩学」(未來社)P120

同様のことをワーグナーも「未来の芸術作品」において、ギリシャの三姉妹、すなわち「舞踏芸術」、「音響芸術」及び「詩文芸術」を軸に言及し、その上で、「すべての芸術ジャンルのうちで最もリアルなものは舞踏芸術である」と断言する。

結局人間は、もっぱら生身の姿によってこれに対応する眼という感覚に自己を伝達することで、完全に満ち足りた心持ちになれるのである。眼への伝達を欠くならば、すべての芸術は不十分なままであり、したがって不満足、不自由ですらある。芸術表現が耳のために、まして結合したり間接的に置き換えたりする思考能力のために最高に仕上げられたとしても、芸術は、眼に対しても分かりやすく伝達されるまでは願望の域を出ず、まだ完全な量力を具えるまでにはいたらない。
リヒャルト・ワーグナー著/三光長治監訳「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P99-100

舞台綜合芸術の根幹たる思想の大本がここに在る。人間的にどうだったのか、様々語られるワーグナーの性質についてはあえてここでは採り上げるつもりはないが、何よりあのあまりに巨大かつ深遠な音楽ドラマを創造しただけでなく、神々や森羅万象に対して恐るべき理解を示したその才能、頭脳に僕はあらためて感嘆の念を禁じ得ない。

同じ論文の中で彼は次のようにも書く。

人間の生の欲求のうちで最たるものは、しかし愛の欲求である。自然な人間の生の諸条件が、理解や救済、より高次なものである人間への同化を熱望していた。下位の自然諸力の愛の結合において与えられているのと同様に、人間はその理解と救済と満足を、もっぱらより高次なもののうちに見つけ出す。そのより高次なものとは人間という類であり、人間の共同体なのである。というのも、この人間にとって存在する彼自身よりも高次のものとは、人間たち(人類)に他ならないからである。そして人間は、もっぱら与えることによってのみその愛の欲求を充たす。しかも他の人間に、それが最も強まった場合には人間全般に、自己自身を与えることによって愛の欲求を充たすのである。
~同上書P95

ワーグナーが果たして言行一致であったのかどうかはわからない。それにしても恐るべし、である。こういった信条の下生み出された作品群が浅薄なはずはなかろう。

没後50年となるハンス・クナッパーツブッシュの指揮で、没後30年のジョージ・ロンドンが歌ったワーグナー集は素晴らしい。彼らは稀代の傑作を通して「もっぱら与えることによって愛の欲求を充たす」のである。

ジョージ・ロンドン・シングス・ワーグナー
・歌劇「さまよえるオランダ人」第1幕から(1958.6.9-11録音
―期限は切れた
・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から(1958.6.9-11録音)
―第2幕ザックスのモノローグ「リラの花が何と柔らかく、また強く」
―第3幕「迷いだ!迷いだ!どこも迷いだ!」
・楽劇「ワルキューレ」第3幕から(1958.6.9-11録音)
―「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」
・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」から(1951.9.11-20録音)
―第1幕への前奏曲(全曲盤から)
―第3幕への前奏曲(全曲盤から)
ジョージ・ロンドン(バス・バリトン)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

いずれも筆舌に尽くし難い、今もって最高のワーグナー。特に、「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」における音楽の咆哮とうねりは随一。

ところで、「音楽とは見られるものだ」と断言するストラヴィンスキーが極度のアンチ・ワーグナーであったことが興味深い。

心静かに「祭典」の仕事を続けていたとき、私の平穏は、バイロイトで落ち合って、あの神聖な場所で私がいまだ上演を観たことのなかった「パルジファル」を聞こうというディアギレフからの誘いによって打ち破られた。・・・(中略)・・・私が見物した公演は、たとえ無料で宿を提供されたとしても、今では私の心をそそらないだろう。まず劇場の雰囲気全体、そのたたずまいや環境が私には陰鬱に思われた。・・・(中略)・・・ここで私は「パルジファル」の音楽にも、ヴァーグナーの音楽全般にも触れるつもりはない。今日、それは私からあまりにもかけ離れたことだ。その企てすべてにおいて私を憤慨させるのは、それを命じた幼稚な精神、芸術的な演し物を宗教的な儀式が構成する神聖で象徴的な行為と同じ次元に位置づける原理自体である。そして実際、このバイロイトの喜劇すべては、その滑稽な慣習も含め、ただ単に神聖な儀式の無自覚な猿真似ではないだろうか?
イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記―ストラヴィンスキー自伝」(未來社)P48

これはもう憎悪、誹謗にも近い思考であるが、僕の感覚では2人のうちに在る「エロスとタナトス」は相似形で、「春の祭典」の中で音化された古代の宗教儀式も「パルジファル」での神聖なる宗教儀式の音化も目指すところは同じ地点であるように思えてならない。結局、ストラヴィンスキーはワーグナーを超えたくても超えられなかったのだと思う。

 

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