クレンペラーのワーグナー&R.シュトラウスを聴いて思ふ

wagner_r_strauss_klemperer081オットー・クレンペラーの奏でるワーグナーは、いわば他を寄せ付けない冷徹さが特長。老練の客観性とでもいうのか、まるで世間(聴く者)をあざ笑うかのようにクールであっさり、そして堂々たる歩調を有しながらも音楽は決してうねらない。
しかしながら、「はまる」のである。

ノーマン・ベイリーの「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」の何という能天気さ(?)。およそ父が娘に別れを告げる赤裸々な場面だとは思えぬ明快さ、明朗さ。オーケストラの響きが重く分厚い分、余計にこの人のバリトンが浮いて聴こえてしまうのは致し方ないことなのか。このアンバランスな歌唱を除いては、やはり「ワルキューレ」終幕のこの最終場面の音楽は最晩年のクレンペラーの為し得た最高のシーンであり、また彼の真骨頂だ。

そして、クリスタ・ルートヴィヒを独唱に迎えた「ヴェーゼンドンクの歌」と「イゾルデの愛の死」については歌唱ともがっぷり四つのさすがの棒。若きルートヴィヒの、思いのこもった歌が、リヒャルト・ワーグナーの妖艶な世界を見事に現出させる。特に第5曲「夢」から「イゾルデの愛の死」に及ぶ、目には見えない崇高な色香はいかほどのものか。ここを聴くだけでこの音盤の価値は十分にあると言えば言い過ぎか・・・。

ワーグナー:
・楽劇「ワルキューレ」第3幕~「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」
ノーマン・ベイリー(バリトン)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1970.10.26-27録音)
・ヴェーゼンドンク歌曲集(フェリックス・モットル編曲)
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」第3幕~「イゾルデの愛の死」
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾソプラノ)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(1962.3.21-23録音)
リヒャルト・シュトラウス:
・メタモルフォーゼン(23独奏弦楽器のための)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(1961.11.3-4録音)

とはいえ、ボックス・セットのこの1枚の白眉は何と言っても最後のトラックであるリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」!!
まさに敗戦濃厚なドイツにあって、追悼の意を込めてこのモノクロームの作品が生み出されたことは間違いないのだろうが、それまでの自身の(ある種)傲慢さを葬り去ろうとするかのような自責、あるいは自戒の念すら読み取れる「メタモルフォーゼン」にあって、クレンペラーは感傷なるものを一切否定し、見事に客観的に作品を音化する。
ベートーヴェンの「英雄」交響曲の葬送行進曲主題が至るところに姿を現す中、気のせいかバーバーの例のアダージョの主題と似た旋律までが空虚に響き渡るのだ。
ちなみに、グレン・グールドはこの曲に心酔し、ピアノ独奏用への編曲まで考えていたそう。

その意味で(簡単な手法で強烈な情緒的効果を生むことができたという意味で)は彼が18歳の時に手がけた交響曲と、81歳になって生んだ「メタモルフォーゼン」の間には、それほど差はない。それによって彼は時代に取り込まれず、自分の生きた時代を豊かにした。

この「カプリッチョ」や「メタモルフォーゼン」(グールドはこの作品に心酔するあまり、ピアノ独奏用に編曲しようとしたくらい)などは、シュトラウスの晩年の作品に属するが、ベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲群を別にすれば、これほど完全な作品はない。
喜多尾道冬「グレン・グールドが見たシュトラウス」より
日本リヒャルト・シュトラウス協会編「リヒャルト・シュトラウスの『実像』」(音楽之友社)P198

喜多尾氏が書くように、確かに「メタモルフォーゼン」は不要なものを一切排した完全な作品だ。

午後、映画「バンクーバーの朝日」を観た。良い映画だった。
人間同士の醜い争いはもうもう止めた方が良いとあらためて思った。

 

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