その作品ができ上がった当時の社会情勢を知ることは、音楽を理解する上で大切なことのように思う。
まず、19世紀後半の文化都市・産業都市パリを舞台にした次のような情景を俯瞰しておこう。ひとつは、このころからパリで開催されはじめた万国博覧会に顕著に見られるような、さまざまな機械製品の普及という現象である。1855年にパリで開催された第1回の万国博覧会では、シャンゼリゼ大通りに設けられた産業品の大展示会場「産業宮」やモンテーニュ大通りの「美術展」の会場と並んで、セーヌ川沿いに「機械館」(La galerie des machines)が設置され、細長い建物に蒸気機関車などの大型の機械製品類が展示された。
~長野順子「オペラのイコノロジー6 ホフマン物語~ホフマンの幻想小説からオッフェンバックの幻想オペラへ」(ありな書房)P90-91
機械への憧れは、人々の創造力、想像力を大いに刺激した。
いまひとつは、こうした産業化社会、大衆消費社会の到来とともに、芸術の世界で伝統的なアカデミーの規範を揺るがすような動きがでてきたことである。
~同上書P91
世界が変われば、また別の世界が連動するように変化する。
諸行無常。すべてがシステムの中にあり、また変化の中にある。変化を恐れないことが大切であることを忘れてはならない。
他方、音楽の世界では、19世紀に入ると政府による劇場の格づけがなされ、オペラ座、オペラ・コミック座、リリック座などに比べ、そのほかの大衆的な劇場は演目や役者の制限が厳しかったが、1864年には劇場の自由化も始まり、通俗的な音楽劇の上演はますます盛んになっていった。台本の検閲は依然としておこなわれていたが、ブーフ・パリジャン座、ゲテ座、ルネサンス座、ヴァリエテ座などのほかに劇場の数もさらに増えてきた。もちろん、それに対する批判も当初から強く起こっていた。それは主に、フランスの正統な音楽を守ろうとするアカデミックな立場からのものであり、音楽雑誌を中心としてさまざまな議論が沸騰していた。とくに、1870年の普仏戦争後は、ドイツ人という出自を持つオッフェンバックに対して、ナショナリズム的な敵意の混じった批判の矢が向けられた。
~同上P94-95
0から陰陽が生じ、世界が生成されるのは大宇宙の法則だが、そこに人間の欲望、例えば、利便性を追求し、すべてがオート―メーション化の波に飲み込まれる中、怠惰な人間はますます堕落していくというのが歴史の常だ。要するに人間はそういう流れの中で真の心を喪失していったのだ。
人間の思惑、あるいは常識という鎧、特にナショナリズムという幻想の怖ろしさを思う。
E.T.A.ホフマンの目指したものは、現実逃避的な、つまり人間のあざとい思念や情感を抜け出さんとする新世界の創出ではなかったか。あるいは、そこにヒントを得て、自身初のオペラを生み出さんと音楽を付したジャック・オッフェンバックの志も検閲や制限という人間の作った愚かなシステムを脱却せんとするものではなかったか(本人の意識とは別に)。
歌劇「ホフマン物語」の醍醐味は、作曲者が完成間近で急逝したためわずかに未完に終わり、他者の補完や幕の入れ替え、あるいはアリアのカットなど、様々な版が複数存在するゆえ、選択は指揮者の解釈に委ねられていて、音盤ごとに新たな作品を聴くような新鮮味を感じさせてもらえるところだろう。
全篇を通じ、やはりニール・シコフの歌うホフマンが圧巻。
また、歌手ではオランピアを歌うルチアーナ・セッラだろうか。否、ジュリエッタのジェシー・ノーマンも相変わらずの堂々たる歌唱で、(問題の多い?)ジュリエッタの幕を聴かせどころ満載の幕に仕上げている。
しかしながら、何といってもこの録音の最大の功労者はシルヴァン・カンブルランだ。数年前、彼が読響の音楽監督だった時期に幾度も実演に触れたが、優れた作品の全体観と堅牢なる構成力、そして流れるフレージングの巧みさなどなど、どの演奏も感動しっ放しだったことを思い出す。
※過去記事(2020年10月23日)
※過去記事(2013年11月18日)