ショパンとサンド

chopin_mazrukas_francois.jpgここ数日、ショパンに浸っている。もともとクラシック音楽の世界に足を踏み入れたきっかけがショパンの音楽であったことは前にも書いた。いっとき寝ても覚めてもこのピアノの詩人といわれる芸術家のことが頭から離れず、まさに恋をしていたといっても言い過ぎではない状態にあった。しかしながら、そういう時期もとうに過ぎ去り、ここ十数年は年に何度CDプレーヤーに音盤を乗せるかというくらい真面目に耳を傾けることはなくなっていた。
2年前から始めた「早わかりクラシック音楽講座」のお陰で、思いがけなく(それはショパンに限らず)作曲家の生涯や時代背景を再び勉強することになり、若い頃には感じられなかった、あるいは見えなかった彼らの人間性、大袈裟に言えば真実のようなものが少しではあるが見えるようになり、音楽を聴く楽しみの幅が随分拡がったように思う。「人間死ぬまで常に勉強」だとはよく言うが、それも毎月のように楽しみにいらしていただける方々がいらっしゃるからであり、そう考えると「人のために働く」ということは「人が成長する」上で最も重要な要素なんだということを改めて実感する。

ところで、ショパンのこと。彼の音楽や生涯を語るにあたり、愛人ジョルジュ・サンドのことは避けて通れまい。ショパンとサンドといえば、「マジョルカ島への逃避行」が一般的には有名だが、その半年ほどの滞在の中に特別にとりあげるべきトピックスは実は見当たらない。「ショパンの手紙」(アーサー・ヘドレイ編)を片手に、時代を追いながら、ジョルジュ・サンドとの出会い(1838年)から別れ(1847年)までの9年間を俯瞰してみると、いわゆるマジョルカ後の「ノアンの館」時代こそが、ショパンが真の傑作を産み、単なる人気ピアニストにとどまらない大芸術家の域に到達しえた貴重な時代だったことがよくわかる。プライベートでは健康障害や、(サンド家の)家庭問題、その結果二人の関係がこじれるという問題を孕みながらも、良いことも悪いことも-身辺に起こる全てを創作エネルギーに転換し、信じられないほどの傑作を残しているのは、まさにジョルジュ・サンドとの出逢い、交際、そして精神的・肉体的関係があったからだと断言できる。
図らずもショパンがサンドと出逢ったことも、サンドがまるで母親のようにショパンの面倒を見なければならなくなったことも、そして挙句は意思の疎通に問題を来たし、誤解を生み、(意図せず)別れを迎えなければならなかったことも、ショパンという芸術家に天才的な作品を残すために神が仕組んだ「必然」だったのである。確かに、あと10年、あるいは20年という時間をショパンが生きていたとしたら、途轍もない傑作を世に送り出した可能性はある。しかし、一方で、創作意欲が減退し、彼が最晩年はほとんど作曲の筆をとらなかったことを考えると、ジョルジュ・サンドなくしてショパンの「天才性」は発揮し得なかったのではないかとも思われるのだ。ショパンの真の傑作は、サンドとのいわば共同作業により生まれ得た産物なのである。

ショパン:マズルカ第51番へ短調作品68-4(遺作)
サンソン・フランソワ(ピアノ)

ショパンの絶筆。つい先日発売されたピリスの録音は、内に壮絶なる「哀しみ」を湛え、かのルービンシュタイン盤に優るとも劣らない(今後ピリスにはマズルカ全曲、いやショパンの楽曲のほとんどを録音してほしいと切に願う)。ただし、今日聴いたマズルカは、そして死を間近に控えたもはや「諦めの表情」のショパンを笑顔で迎える天使のような優しさを秘めたフランソワの古い録音。誰よりもお洒落に、そして誰よりも明るく・・・。

ところで、来年4月にピリスが来日公演をする。何とオール・ショパン・プログラムで待望のチェロ・ソナタも含まれている。早速チケットは押さえた。楽しみだ。

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