クリストファーズ指揮ザ・シックスティーン ビクトリア 聖週間のレスポンソリウム集(1990.5録音)

いかに生き、いかに死すべきかを決する場面では、多くの人々は聖書や、バガヴァッド・ギーターや、クルアーンなどの聖典をひもとき、そこに記された物語や格言から何がしかの霊感や妙想を得ている。たとえ、そこに記された真理をどうすれば証明できるのか(あるいは、真理であるか否かをどうすれば判定できるのか)、皆目見当がつかなくても。「空の空なるかな、すべて空なり」、「おのれを愛するごとく、汝の隣人を愛せよ」、「神は自ら助くる者を助く」などの章句が、その例である。今日ではこうした概念は「知恵」と称されているが、古代の人々はそもそも、道徳や宗教や哲学に関する知識と、宇宙全般に関する知識を識別しようなどとは思っていなかっただろう。けれども、私たちはこれまでずっと、これらの知識を正確に識別するよう教育されてきた。知識と知恵を分別し、一見客観的で検証可能な科学上の真理と、直観的で主観的な宗教や哲学上の真理を峻別して初めて、いわゆる近代的なものの見方というお墨付きを与えられるのだ。
リチャード・E.ルーベンスタイン著/小沢千重子訳「中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ」(紀伊國屋書店)P19-20

厳密には、知識と知恵は分別されるべきものである。
知識は外から取り込んだものであり、一方、知恵(智慧)は内から湧き出づるものゆえに。
それにしても、言葉を正確に捉えることは困難だ。ましてや言葉にならぬ真理を、聖典とはいえ文字から捉えようとすると、その神髄がまったく不明になる。「聖」という文字が「耳」と「呈」という字によって成り立つように、真理は聴覚で捉えることが正統なのかもしれない。

一切の世俗曲の創作を拒否した(?)16世紀スペインの作曲家、トマス・ルイス・デ・ビクトリア。澄明な声の深層に垣間見えるPassion—それは受難でもあり、また情熱でもあるのだが—に心が動く。

ビクトリア:聖週間のレスポンソリウム集
・聖木曜日のレスポンソリウム
・聖金曜日のレスポンソリウム
・聖土曜日のレスポンソリウム
ハリー・クリストファーズ指揮ザ・シックスティーン(1990.5録音)

復活祭に先立つ1週間のための聖歌。神に捧げられし音楽の妙なる美しさ。人声が重なり合うポリフォニーの崇高さ。何より、心から生ずる祈りの発露が絶妙に刻印されたハーモニーは、森羅万象すべてを揺るがす力とエネルギーに満ちる。

金田敏也さんは、ザ・シックスティーンの初来日時のコンサートで、「聖木曜日のレスポンソリウム」から第1曲「わが友が」を聴いたとき、「こんなにも激しい音楽!」と絶句し、感動したという。可能な限り「無」を照らし出さんとすべき音楽に、あまりに人間的な感情が入った熱唱に、思わず膝を打ったのだという。確かに、いずれのレスポンソリウムも熱い。あくまで人間が歌うのだと言わんばかりだが、決して神を否定するのではない。すべてを超越しようとするが、それは叶わないのだ。それこそ人間の弱さであり、弱さの表出こそが、聴く者に感動を与えるのだと僕は思う。
美しい、すべてがあまりに美しい。

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