何事も賞賛あれば批判あり。
世界が二元で成り立つ以上、すべてに表があり裏がある。しかもそれらは、どちらが「正しい」というものではなく、一方が一方を補うという形をとるもので、いずれもが他方にとってなくてはならない存在となる点が大きい。
それにしても人間は「否定」に弱い。もう少し鷹揚に構えられないものなのかと思うのだが、根底にある被害者意識のゆえなのかどうなのか、組織が肥大化すればするほど中傷というものに対するアンテナが一層敏感になるところが僕などは逆に歯痒いと感じてしまう。
地球はその字のごとく「丸い」。それは、ひとつであり、共同体であるということ。そこには本来西もなければ東もない。
新約聖書ラテン語版の第18章第1節から第19章第37節までをそのままテキストにしたアレッサンドロ・スカルラッティの「ヨハネ受難曲」。冒頭からそこはかとない哀感が示されるこの音楽は、やはりイエスの磔刑の物語であり、ルネ・ヤーコプスの人間離れした歌唱と相まって、一層その悲しみを強調する。
祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、叫んで「十字架につけよ、十字架につけよ」と言った。ピラトは彼らに言った、「あなたがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい。わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない」。
~ヨハネによる福音書第19章第6節
ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」。
~ヨハネによる福音書第19章第7節
神は外にはない。自らの内側に存在するのである。
スカルラッティの書いたこの部分の音楽に心惹かれる。
・アレッサンドロ・スカルラッティ:ヨハネ受難曲
ルネ・ヤーコプス(エヴァンゲリスト、カウンターテナー)
クルト・ヴィドマー(キリスト、バス)
グラハム・プシー(ピラト、カウンターテナー)
バーゼル・マドリガーリステン
ルネ・ヤーコプス指揮バーゼル・スコラ・カントゥルム(1981録音)
真理は語るものでない。せいぜい音楽で表現するのが限界か。そういう意味で、アレッサンドロ・スカルラッティがヨハネ福音書のテキストをそのままに音化したこの受難曲の素朴さと直接性は真に素晴らしい。
そして、賞賛すべきはルネ・ヤーコプス。ヤーコプスの歌は実に巧く、エヴァンゲリストの客観性を完璧に表出しており、これほど哀愁滴る音楽はなかなかない。
バッハの「ヨハネ」があくまで計算の上で成り立つ(プロテスタンティズムのなせる業?)人間的な物語であるのに対し、スカルラッティの本作はまさに天の声。素晴らしいと思う。
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[…] ルネ・ヤーコプスのアレッサンドロ・スカルラッティ「ヨハネ受難曲」(1981録音)を聴いて思ふ […]